親泊宗秀
2018年6月25日更新
東松照明写真展|親泊宗秀のコラム
宮古島市に住む親泊宗秀さんが沖縄・宮古島の自然や人々の暮らしをご紹介します。沖縄を遊ぶ・楽しむ vol.11
「46年前、子どもだったあなたは 今どうしていますか。」これは、写真展のサブタイトルである。今年8月10日から9月16日の期間、宮古島市総合博物館で「東松照明写真展」が行われる。ご存じの方も多いと思うが、「写真家・東松照明」といえば、世界的写真家である。日本では「戦後写真の巨人」と称されるほどの重鎮だ。
氏の代表作1975年に出版された写真集「太陽の鉛筆」を再編成して行うのが今回の写真展だ。
氏は、1972年沖縄が本土復帰する直前の4月に那覇に移住し、沖縄の素顔を写し撮っている。移住前から離島を巡っていたのだが、翌年の1973年に宮古島に転居し、精力的な活動をする。その中で宮古島の若者たちとの交流が生まれることになる。
当時、大型台風が連続して宮古島を襲い、農家は大打撃を受け、離農する人たちが増えた。自ずと島を離れる人たちが出てくる。島は過疎化が進み始めていた。
宮古滞在中、氏は知人の紹介で、元家畜診療所の事務所跡をどうにか暮らせる程度に改装して住まいとした。氏を慕い集まった若者たちが、そこを交流の拠点としていたのだ。
友が友を呼び、10名ほどがメンバーとなった。そして、グループの名称が「宮古大学」と名付けられた。メンバー数名に話を聞いたのだが、その頃は見るのもめずらしい本土の人、しかも、カメラを携えた中年のおっさん。(私が言ったのではない)
そのめずらしい人と若者が、まじめに取り組んだ活動が離農問題と過疎化の調査だったと聞いた。
氏は、宮古の歴史を深く学んでいる。それは、写真集「太陽の鉛筆」に掲載されている6編のエッセイから読み取ることが出来る。今でもそうだが、地元の者であっても、島の歴史を深く知る人は少ない。日本史は学んでも、地元の歴史を改めて学ぶ機会は限りなく少ないからだ。氏は若者たちと島について、間違いなく語りあっただろう。若者たちも足下の島の歴史について、知らないことが多かったに違いない。
その時の若者たちは、現在60代後半に差し掛かり、地元を牽引する役割を担っている方が多い。メンバーのひとりが言っていた、「あのころは、東松さんが、そんなに凄い人とは知らずに、同じ時間を過ごしていたが楽しかった。生前は、写真集が出るたびに、送ってきてくれていた。」「東松照明の名を聞く度に、関係者でもないのに気になる」と・・・。青春の同時期を一緒に過ごした若者たちは、少なからず東松氏に感化されていたようだ。
写真集「太陽の鉛筆」の中で、宮古島各地域で撮影された人々は、実に屈託のない表情を見せている。人は写真を構えられたら、ある程度緊張をするものだ。けれど、被写体の自然体な表情は、カメラで撮られているという感じが全くみられない。撮り手に話かけれ、ただ会話をしているようにしか見えないのである。
素朴でありきたり、日常の風景の一部を切り撮った作品が、時を超え宮古島に凱旋(がいせん)する。
この機会は、偶然ではないはず。宮古島は、「宮古バブル」と、ささやかれ、建設ラッシュが続いている。リゾートホテル、ウイクリーマンション、集合住宅が矢継ぎ早に原野や農地に建ち始めている。公共・民間共に大型プロジェクトが目白押し、5年後の島は予想を遙かに超えて一変しているかもしれない。変化を恐れるものではない。けれど、変化のありようは、憂慮すべきものがあるように思う。
変わっていいもの、変えてはいけないものを見極める眼が備わっていないと、失ってから気づいても手遅れになる事柄がある。
46年前、私は中学2年生だった。東松氏が暮らしていた場所は、実家から近い場所にあったことに親近感を覚えるのだが、氏を見かけた記憶が残念ながらない。作品には同世代の子どもたちが写っている。少年の学生帽はツバに細工を施してある。みんなまともにはかぶらなかった懐かしい一コマだ。他の作品も日常が鮮やかに写し撮られてので、観るものの琴線に触れる一枚がきっとある。
親泊宗秀のコラム
・vol.11 東松照明写真展
・vol.10 宮古島の原風景(池間島)
・vol.09 御嶽
・vol.08 麺にこだわる島人
・vol.07 孫の味方
・vol.06 珈琲の香りを喫む
・vol.05 光に満ちた世界
・vol.04 宮古島の四季を感じる
・vol.03 夜の帷(とばり)が降りるころ
・vol.02 宮古島からの便り ロマン・空想は尽きない。
・vol.01 宮古島からの便り[赤浜]