マジカル真和志ミステリーツアー|新城和博さんのコラム|fun okinawa~ほーむぷらざ~

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新城和博

2025年5月26日更新

マジカル真和志ミステリーツアー|新城和博さんのコラム

ごく私的な歳時記Vol.126|首里に引っ越して30年ほど。「ボーダーインク」編集者でライターの新城和博さんが、季節の出来事や街で出会った興味深い話題をつづります。

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ここんところバスの一番前の席、ほらタイヤのところにあたっているからか、一段盛り上がっている席に座るのが好きになった。運転手さんの気配、仕事ぶりが分かる、または進行方向前の様子がよく見えるところ。同じ車窓の風景も前を向くか横を向くか、またその高さによって見えてくるものが違う。見なくてもいいけど。

その日は、梅雨はまだかと思っていたが始まる夏の暑さの威力を忘れていたので、帽子だけでは暑さ対策にならないことを思いしった日であった。

松川は、かつての真和志村だ。フランス系ホテルの裏辺りのゆるい斜面に住宅がぎゅうと並んでいる、曲がやーひがやーしているすーじ道を歩き出したら、思いのほかかつての集落の気配が残っていた。整備された公園はあちこちから集められてきた村の拝所が祀られ、沖縄相撲の土俵は人工芝が貼ってあり、鳩がお腹をくっつけて、ひなたぼっこをしていた。日傘を持ってくればよかった。

曲がりくねっている真和志村の道は、人ひとり通れるかどうかの行き止まりと思わせて、川沿いから抜けて行ける感じが好きで、一年に三回くらい、思い出したようにあてもなく歩いたりする。そんなに思い出はないのに。途中立派なバナナ畑を見つけてほぉうと感心する。新しい懐かしい風景はいつまでもステキだ。



那覇市にとって「真和志」とはどんな存在なのか。これは実に那覇の戦後史を考える上でとても大切なのだが、真和志人(まーじんちゅ、と言うのかどうか)と話したことないので、なんとも言えない。

かつての真和志村はみんなが考えているより大きい。国場・識名あたりから真嘉比、安謝あたりまでぐるっと真和志村なのである。古波藏も楚辺も昔は真和志村だ。戦後の一時期は「みなと村」だったこともある。戦後史の断片を歩いていることを意識してると、街並みはぜんぜん違って見えるのだ。バスの一番高い席に座っているような気持ちになって真和志をマジカル・ミステリー・ツアーしてみたい。

今歩いているところは松川から栄町市場をぬけて、壺屋へいたる道だが、とにかく道がくぬりくねりしているし、川の支流も何本か越えて、しかもゆるやかな起伏もある。そしてなんだか外部からの目を遮断しているような、独特の閉鎖感もある。
 

時折見せる魔境の顔は、戦前は農村だったところに、戦後、沖縄各地から流れ込んでくる人々を吸収して形成していった、都市計画からこぼれ落ちた、いやそのスピードを超えて植物のように路地を這うようにして増殖していった住宅の建ち並びの野性味だ。平坦な道も真っ直ぐな道もほとんどない。



暑さにくらくらしながら、住所は壺屋だけど三原地区のような丘を歩いていたら「楚辺区」を見つけた。那覇で楚辺といったら、泉崎や壺川や古波藏に囲まれたあたりの住所なので、びっくりした。那覇で意外な飛び地のような住所にない地区名は、だいたい戦後なにかあって移動してきたところなのだ。いろいろ想像が膨らむ。

このあと壺屋からよく知っている楚辺、三田、壺川まで歩いてしまうのだけど、いくつかバナナ畑と遭遇した。
 

みんな立派だった。うちなーぐちでバナナ・芭蕉のことを「バサナイ」というのだが、風にたなびく葉の感じがぴったりだった。
 

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ライター/編集者
1963年生まれ、那覇市出身。沖縄の出版社「ボーダーインク」で編集者として数多くの出版物に携わるほか、作詞なども手掛ける。自称「シマーコラムニスト」として、沖縄にまつわるあれこれを書きつづり、著書に「うちあたいの日々」「<太陽雨>の降る街で」「ンバンパッ!おきなわ白書」「道ゆらり」「うっちん党宣言」「僕の沖縄<復帰後>史」などがある。

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