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喜屋武奈央子

2018年1月31日更新

グローバルな女性と言えば?|喜屋武奈央子のコラム

喜屋武奈央子のfunokinawaコラム[vol.08]



私のコラムでは、自分がグローバルな荒波にもまれる中で、「こういうことになるって、早めに誰かに教えてもらいたかった~!」「こんな状況の時どうやって乗り越えたのか、聞ける先輩に会えたら良かったのに。。。」と思ったことについて、今までに出会ったグローバルな女性たちから頂いたヒントや自分の経験を、テーマごとに分けてお伝えしています。

「グローバルに活躍する女性」と言うと、語学に堪能で高学歴なうえにすてきなパートナーと国際結婚をしていて、仕事もプライベートも満喫しているというイメージを持つ方は結構いるのではないでしょうか? 私もそう思っていた時期がありましたし、実際そういう女性たちは周りにいました。でも、私が「身近にいるグローバルな女性を1人あげてください」と尋ねられたとしたら、迷いもなく「それは私の母です」と答えます。

私の母は、海外に留学したこともなければ外国語に堪能でもありませんし、国際結婚もしていませんが、私が世界に目を向けるきっかけや、グローバルな環境で生きていける基礎を作ってくれました。それは、母自身がグローバルな感覚を持つ女性だからだと思います。母は自分がそういう感覚を持っているとは気付いていないと思いますが、私から見れば立派に世界で通用する感覚です。

私は最初から世界の出来事に興味があったわけではなく、最初は英語に興味を持ちました。そのきっかけは、家にあった「メアリー・ポピンズ」のビデオです。父と母が初デートで観た映画らしいので、母が買っておいたのでしょう。私はメアリー・ポピンズの話す言葉が英語というものだと知り、英語を話したいと思うようになりました。NHKの「基礎英語」というラジオ講座を小学校の時に聞き始めた時、毎月教科書を買ってくれたのも母でした。バイリンガルDJの先駆け的存在である小林克也さんの「アメリ缶」というカセットテープ版の英語教材や、楽しく単語を覚えられる「単語レモン」という英単語の本など、気が付いたら周りに補助教材がさりげなく(笑)置いてありました。

グローバルな環境で生活していると、ホームパーティーや職場で開かれるレセプションなど不特定多数の人々と話をする機会が結構あるのですが、その時に重要となるのが「雑談」です。この場合の雑談とは、トリビア的な知識を披露するものではなく、幅広くいろいろな分野について何となく話ができる、ということです。私が雑談に違和感なく溶け込めた背景の一つには、家に百科事典が全巻あって好きな時に読むことができたということがあります。これも母が買いそろえたものでした。本棚には世界の宗教や心理学、精神世界に関する本もあり、自分とは違う宗教的バックグラウンドを持つ人々と話す際の土台になりました。

今でこそLGBTと呼ばれるセクシャルマイノリティの人々は世間一般に知られるようになってきましたし理解もされてきていますが、私が子どもの頃はそうではありませんでした。そんな社会的背景の中で、新潟の小さな町に住んでいた小学生の頃、母はイギリス人のゲイの男性から英会話を習っていて、彼と彼のボーイフレンドを家に招待したこともありました。母はその人からもらったバラのティーカップセットを大切にしており、先日私が(というより娘が)ワンセット受け継ぎました。また、ゲイやレズビアンの映画も普通に借りてきて観ていましたので、私も自然に観るようになり、LGBTの人たちに対して何の偏見を持つことなく育ちました。

母は女性が経済的に自立する大切さについても教えてくれました。母から教えられたことはたくさんありますが、とても印象に残っているのは、私が小さい頃から、「女性は一人で生きていけるくらいのお給料をもらえる仕事につくことが大切。自立した女性になりなさい。」と言っていたことです。この教えが頭にあったこともあり、国連では労働問題を専門に扱う国際労働機関を希望しました。「グローバルに活躍する人材を育てる」という私のミッションも、この教えから始まっています。

グローバルな環境では、自分の国籍や育ってきた文化などのルーツに誇りを持ちつつ、自分とは違う国や環境で育ってきた人たちを理解することがとても大切になりますが、母が関わっていた文化活動に子どもの頃から自然に触れていたことで、そのベースができていったと思います。

物事を多角的に考えることの大切さを教えてくれたのも母でした。例えば「正義のために」と言う時、自分にとっては正義でも周りにとっては違うことが多々あるから、常に自分だけの考えにとらわれずにいろいろな側面から物事を捉えなさいと教えてくれました。

国連で勤務し始めた時、「レセプションに参加する時などに使いなさい」と言って、母が大切に持っていた着物の帯をきれいに染め直して、クラッチバッグを作ってくれたことがありました。着物を着ている日本人職員もいましたが、私はスーツやドレスにそのクラッチを合わせました。すると、それを目にした人たちが珍しさに次々と寄って来て、初めて話す人たちでも和やかに話が進みました。単に手作りのバッグではなく着物の帯を使うことで、日本人としてのアイデンティティーを装いで見せるという母の感覚には、本当に感動しました。

学生時代、母には弁護士になりたいという夢がありました。その夢はさまざまな理由でかないませんでしたが、これだけグローバルな感覚を持ち合わせている母ですから、もし弁護士になっていたとしたら、多くの女性を助け、勇気づけ、育てていっただろうと思います。少なくとも、母は今の私のルーツであり、私がこうしてコラムを書いているのも母がいるからなのです。


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1974年に沖縄本島(現在のうるま市)で生まれる。父の仕事の都合で10歳の時に新潟県に、13歳の時に北海道札幌市に引っ越す。大学3年まで札幌市で過ごし、21歳で米国アイオワ州にあるアイオワ大学に編入し、学士号(経済学)と修士号(第三世界の開発)を取得。卒業後は東京の財団法人や政府機関で働いたのち、国連の専門機関である国際労働機構(スリランカとスイスのジュネーブ)で勤務。帰国後は沖縄に戻り、現在は恩納村にある沖縄科学技術大学院大学(OIST)で勤務。1児の母。

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