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2018年6月21日更新
学生が見た戦争 「夢は軍人 疑問は無かった」[6.23 慰霊の日]
10代で兵隊となり、戦争に巻き込まれた学徒たち。当時、どんな学生生活だったのか。今、何を思うか。第一中学校出身で、鉄血勤皇隊に入隊した與座章健さん(89歳・元全学徒の会共同代表)に話を聞いた。
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1941年、12歳で県立第一中学校に入学した。最初は静かに勉強ができていたけれど、12月に日本が真珠湾を攻撃。徐々に雲行きが怪しくなった。44年に10・10空襲 ※1が始まってからは、授業はなくなって陣地構築。嘉手納や読谷に泊まり込み、日中は飛行場の土を掘って、蚕棚のような簡易ベッドに寝泊りをして。文句を言える時代じゃないさ。
物心ついた時には皇民化教育を受け、軍国少年。軍人になることが夢だった。45年3月、鉄血勤皇隊に入隊。「命を国に捧げる。戦争は勝つだろう」と、何の疑問も持たなかった。その後、食糧が足りないと除隊を言い渡される。家族と弾が飛び交う南部を逃げ惑い、捕虜に。収容所で目の前を米軍の頑丈な戦車が4、5台通った。日本のはブリキ板で作ったおもちゃみたいな戦車。「日本は負けた」と涙がボロボロ落ちた。
戦後4、5年は、飯も十分に食えない。生き残って、貧乏くじを引いた、と思った。50年、21歳で学費が免除される契約学生として日本大学へ。勉強をし、未来に希望が出てきて、ようやく生きていてよかったと思えた。62年にアメリカに行き、その広さと豊かさに、よくこんな国と戦争したな、と思ったよ。
戦時中、下級生2人に召集令状を持っていって、そのうち1人は亡くなってしまった。召集令状を、破って捨てた同級生もいた。敵前逃亡は銃殺、と言われていたのに、こんなこともできるのかとショックだった。僕にも、破って捨てる勇気があれば。今も時々夢に見るさー。
戦時中は、日本全体が物が見えなくなっていた。何が正しくて、何が誤っているかを見分けるのは難しい。しっかりした情報を持たないといけない。
沖縄戦では21の学校から学徒隊に招集され、約1000人が戦死した。今年、「元全学徒の会」を結成。昨年できた摩文仁の丘の「全学徒の碑」に、戦死者の数を記してほしいと、県に働きかけている。
※1.10・10空襲 1944年10月10日に行われた、南西諸島への米軍の最初の大空襲。
一中学徒隊資料展示室
県立第一中学校(現首里高校)は、主に12歳~17歳の男子生徒が通う、県内有数のエリート校だった。那覇市首里にある資料展示室には、一中学徒隊の遺影や遺書、証言などが展示されている=上写真。敷地内には、一中健児の塔がある=下写真。
1945年3年生以上220人は鉄血勤皇隊へ、下級生115人は電信隊へ入隊。動員外の学生を含め、290人が戦争で無念の死を遂げた。勤皇隊は「爪、遺髪、遺書」を提出させられていた。資料室の遺書には「若桜散るべきは今なるぞ」という勇壮な言葉のほか、「家族に会えなくてさみしかった」という少年らしい言葉も。
大田さんは「遺影や遺書を見てほしい。遺書には、『命を捧げて戦います』『自分の命は天皇のもの』という言葉がある。学徒隊は、教育と切り離せない。彼らがどんな教育を受けてきたか。教育はどうあるべきかも、考えさせられる」。
展示室は、月~土、午前10時~午後4時に開館。
那覇市首里金城町1-7 養秀会館2階
電話:098-885-6450
<6.23 慰霊の日「託された思い次世代へつなぐ」>
撮影/比嘉秀明・編集/栄野川里奈子
『週刊ほーむぷらざ・6.23 慰霊の日』
第1613号 2018年6月21日掲載
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