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2022年5月12日更新
【復帰50年特別企画】変わるもの 変わらないもの|琉舞衣装の店 てんぐ屋(那覇市 牧志)
沖縄が1972年に本土復帰してことしで50年。衣・食・住の分野から、商売を通して世の中の移り変わりを見てきた女性経営者や事業後継者にインタビュー。復帰して変わったこと、変わらないことなどを、これまでの歩みと共に語ってもらった。
復帰50年特別企画
復帰後、琉舞ブームで家業繁盛
沖縄の伝統文化 県外で広く紹介
琉舞衣装の店てんぐ屋(那覇市牧志)
左/嘉手苅 安子さん(94)右/新垣 悦子さん(90)那覇市の「平和通り」に接する日本一短い商店街「八軒通り」で琉球舞踊衣装店「てんぐ屋」を営む嘉手苅安子さん(94)と義妹の新垣悦子さん(90)。亡き母、嘉手苅広子さんが戦後すぐ露天市場で始めた店を、公設市場、八軒通りへと移転しながら、今も元気に店を続けている。
1948年、20歳で嘉手苅家の長男に嫁いだ安子さんは、75年以上ある店の歴史を振り返り、「復帰やコロナ禍の影響は大きかった」と話す。
45年、戦後初の琉球舞踊研究所を開設した玉城盛義氏の下、父仁誠さん(故人)が三線の地謡(じかた)を担当していた縁で、広子さんと安子さんは玉城氏の指導を受けながら琉球舞踊の舞台衣装を製作していた。「店は舞踊研究所のお弟子さんや那覇の高級料亭で働く人たちからひいきにされた」と振り返る。
復帰前で印象に残っていることといえば、「大雨のたびに起きた浸水」と姉妹。「腰まで水につかりながら、自宅のある神里原まで帰りました。浸水後は大掃除のために2日も仕事を休まなければならないほど大変でしたよ」と悦子さん。浸水は下水道の整備で解消され、復帰後の繁栄を後押しした。
復帰後、県外では琉球舞踊など沖縄の伝統文化を紹介する興行が盛んに行われるようになり、てんぐ屋も忙しくなった。「朝早くから働いて365日休みなし。専属の縫い子さんや従業員も増やした。笑いが止まらないほど売れましたよ」と声を弾ませる。
1950年代。ガーブ川が氾濫し浸水騒ぎとなった平和通り。大雨のたびに繰り返された。安子さん、悦子さん姉妹も「浸水で1階の畳が浮いた。物を2階に運んだり、掃除のために仕事を休むなど大変だった」と振り返る。(那覇市歴史博物館提供)
1954年ごろ。八軒通り周辺から見た平和通り。「冠婚葬祭の買い出しは那覇という人が多かった。盆正月になると開南バス停で下車した人が大行列になって平和通りを埋めていた」と悦子さんは当時を語る。(キーストンスタジオ所蔵 那覇市歴史博物館提供)
育児でやむなく退職
悦子さんは復帰後を振り返り、「特に近年、女性が活躍できる時代になった」と喜ぶ。20代半ばまで戦後初の女性警察官第1期生として勤務していた悦子さん。「交通整理や裁判の立ち会い、米兵相手の売春婦の取り締まりなど、女性警察官の役目や寄せられる期待があり、本当は辞めたくなかった」と明かす。「出産当時、保育園というものがなくて子守りを雇ったんですけど、親戚などにしかられました。当時の女性は自分より家族を優先して生きるのが当たり前でしたから」と語る。しかし、「安子姉さんと一緒にお店をできるのが、私の元気の理由。定年して家にいたとしたら、きっと頭も体も動かなくなっていたと思う」と笑顔を見せる。
コロナ禍は姉妹で仲良く営む店からも客足を遠ざけた。周囲には店を閉じる決断をした人も多い。2人は寂しい気持ちを語り、「自分の店で家賃がないのが幸いした。カジマヤーなど生年祝いの衣装は伝統文化を大切にする地域の人たちから根強いニーズがあり、舞台公演用の問い合わせや注文も少しずつ出てきた。その声に応えるのが喜び。体力気力が続く限りずっと頑張っていきたい」と力を込めた。
かでかる・やすこ/1928年生まれ。48年、結婚。義母が戦後すぐに始めた琉舞衣装店で働きながら4人の子を育てた。得意の裁縫で衣装を製作したり、他に水上店舗も出すなど家業を支え、現在は義妹と店を営む。
あらかき・えつこ/1931年生まれ。「てんぐ屋」創業者、嘉手苅広子の長女。高校を卒業後、戦後初の沖縄女性警察官第1期生として勤務し、育児のため退職。義姉と実家の店で働きながら3人の子を育てた。
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文/赤嶺 初美(ライター)
『週刊ほ〜むぷらざ』復帰50年特別企画
第1814号 2022年5月12日掲載