特集
2025年6月19日更新
【6.23慰霊の日】戦後80年企画|女性が語る暮らしの記憶
今年は戦後80年。米軍統治を経て、1970年のコザ騒動、そして72年に本土復帰―。揺れ動く時代を生き抜いた、又吉初子さん(91)、屋良和子さん(75)に話を聞いた。※過去写真は又吉さん、屋良さん提供

女性が語る暮らしの記憶
戦前戦後を生き抜いて
少女時代に戦争の混乱期を生き抜き、戦後は米軍基地などで働きながら、家庭を支えた又吉初子さん(91)。厳しい時代をたくましく生きてきたその姿に、暮らしの知恵と家族への深い思いがにじむ。
又吉初子さん
家族や友人こそ真の財産
又吉初子さんは3歳で石垣島から浦添に移り住み、6人きょうだいの末っ子として育った。父親は八重山や台湾を往来し商売をしていた。
「戦前は学校に裸足で通った。弁当はふかした芋二つ。私は背嚢というランドセルみたいなカバンを背負っていたけど、風呂敷を腰に巻いて通学する子も多かった」と話す。
当時の教育は軍国主義。「授業は『朕惟フニ我カ皇祖皇宗…』と教育勅語を暗唱してから始まった。全校朝礼と午後の体練があり、年長者への挨拶も厳しく教えられた」
家庭も厳格で、朝は正座して父親に「ウキミソーチ(おはようございます)」と挨拶し、お茶を出す。食事も男性は上座、女性は下座で別々だった。帰宅後は芋洗いや畑仕事を手伝った。
戦争が激化すると授業より奉仕作業が増え、生活も緊張感を帯びていった。それでも、「防空壕も食料も全部お父さんが確保してくれたから苦労はなかった」と語る。
米軍の本島上陸後、家族は浦添から首里、東風平へ避難した。「たくさんの死体をまたぎ、踏んで進むことも」。今ある命は父親のおかげだと話す。「爆風に飛ばされ意識を失い、死んだと思われた私を抱いて逃げ続けてくれた。シークヮーサーの絞り汁で家族をマラリアから守り、罹患して苦しむ人々も助けた」。6月25日、父がふんどしを白旗代わりに掲げ、壕から出て捕虜になった。「付近の壕からも続いて出てきた。当時、米兵に捕まったら女はレイプされて、男は頭の皮を剥がれると言われていた。苦しい思いをして死ぬより、自分で死んだ方がいいと自決する人が多かった。それがとても残念」。戦中の記憶には、家族を必死で守った父の姿が強く残っている。
戦果アギヤーもした
終戦時は11歳前後で家族の生活を支えた。「日の丸の国旗を持って、米兵に『チェンジ、チェンジ』と言うと、大きな四角い牛肉の缶詰三つと交換してくれた。ゴミ捨て場には肉やアイスクリーム、卵の黄身が入った一斗缶もあったし、壕の跡には乾パンやタバコ、銅線などもあったから拾って売ったよ。戦果アギヤーね」

1949年、中学3年生の又吉さん(前列右)。同級生たちと共に。=過去の写真は又吉さん提供
17歳から米兵将校が利用するホールで働き、解散後は将校の家で家政婦として働いた。20歳で親が決めた相手と結婚。夫が事故で失職すると、「拾い洗濯」で稼いだ。「個人から洗濯を請け負い、アイロンかけて1回5㌦。3〜4人から仕事をもらって。家政婦の給料が円換算で1200円で、合わせたら結構な稼ぎになる。それもね家政婦先で家主が留守の間に洗濯して、木炭アイロンを使った」
夫が事業で成功し専業主婦になったが、夫は48歳で急逝。又吉さんは仕事を掛け持ちし、6人の子どもたちと力を合わせ苦難を乗り越えた。「金でなく、家族と友人が財産」と心底思った。
「人を批判するより、自分ができることを考え、知恵と技術を身につけたほうがいい。物を捨てる前に再活用する方法や、どんな植物が食べられるかを知るとかね。戦争でも災害でも、物や食べるものがなくなるさ。1人でなく、みんなで集まって頭を使えば、いろんな考えが生まれる」。生きる力を養う大切さを説く。

1957年、夫と子ども2人と共に。夫は戦後、重機の貸し出しの事業を始め、国道58号や福地ダム、伊祖トンネルなどに携わった
コザ騒動で自立を決意
1970年のコザ騒動をきっかけに、自立を決意し上京した屋良和子さん(75)。「アメリカに頼っていてはダメだ、手に職を付けないと、と思った」と振り返る。
屋良和子さん
4カ月後に単身東京へ
沖縄市でタイムス胡屋販売店を夫と切り盛りする屋良和子さん。基地と隣り合う街コザ(沖縄市)で生まれ育った。実家は銭湯で、小学1年生から番頭に立った。コザはベトナム戦争(1960~75年)時代多くの人でにぎわい、銭湯には地元の人やバーで働く女性など、さまざまな人が来た。
屋良さんは、コザでたくましく育った。「フェンス越しにブロークンイングリッシュ(片言英語)で米兵にチョコレートやガムをねだるのはしょっちゅう。親には『もらった』って言ってね(笑)。クリスマスの翌朝には、夜明けに通りに行き紙テープの下に落ちているドル札を集めた」
中学1年生のころ、奄美から来た少女と友達になった。「同級生で仲良くなった。青春映画を見に行ってそばを食べて歌って帰ったり」。身売りされたという少女は、親を恨んでいなかった。「命はある。親兄弟が食べられるなら、それでいい」と。その後、奄美に帰った少女とは、二度と会えていない。
高校卒業後は米兵相手のメガネ店で働いた。100㌦入ると鐘がなり、「大入り」と1㌦が手渡された。米兵はお金の使い方が派手で、景気は良かった。「ベトナムに行けば戻れない、と思っていたんでしょうね。刹那的だった」

3歳の屋良さん(1953年)。服や靴は、アルゼンチンに移民した祖父母から贈られたもの。「母だけが沖縄がいいと残ったけれど、親戚はアルゼンチンにたくさんいるよ」=写真は屋良さん提供
働きながら洋裁学校に
1970年の深夜、米軍車両を焼き討ちするコザ騒動が起きた。屋良さんは騒動を知らず、翌朝、ガスの匂いが充満する街中を通勤した。その道中、警察署前で正座する人々と、銃を構える警察、MP(米軍憲兵)を見た。「何が起きたのだろうと思っていたけれど、騒動のことを知り胸がスッとした。『沖縄の人も怒っていいんだ』と思えた。当時、事件・事故が起きても米兵は裁かれず、沖縄の人は物も言えない。怒りがたまっていた」
コザ騒動をきっかけに、屋良さんは上京する。「アメリカにばかり頼っていてはダメだ。手に職を付けて自立しないと」。4カ月後、パスポートを手に、船で東京へ出発した。「結婚もせず女が働くなんて」と親に猛反対されたが、迷いはなかった。「『ウートゥティカメームヌカメー(夫の稼ぎで食べなさい)』『女に学問をさせるなんて』と言われていた時代。高校も親に頼み込んで通わせてもらった。私はずっと奄美の友だちが忘れられなかったんです。自分の人生、自立して生きよう、と決めた」
1年間ケーキ屋で働いて学費を貯め、翌年から昼間働き夜間は洋裁学校へ通った。卒業後は、プレタポルテ(高級既製服)の洋裁所へ勤めた。「最初は沖縄出身というだけで馬鹿にされて、何食べてたの?とも聞かれた。でもまじめに働いていたら、ちゃんと見てくれる人がいた」
1975年、海洋博(沖縄国際海洋博覧会)をきっかけに沖縄に戻り、洋裁店を開く。東京・渋谷から仕入れた生地で作るオーダーメードの服は好評だった。
30歳で結婚。夫の祖母が営んでいたタイムスの販売店を引き継いで45年。働きながら育て上げた娘2人には、「女という理由で、できないことはないよ」と伝えてきた。今も2時起きで新聞配達をする屋良さん。「がむしゃらに生きてきた。働き続けることが、元気の源」と笑う。

昔の写真を手に、過去を振り返る屋良さん。写真は上京した直後、20歳の屋良さん(1970年)。東京に着いた翌日からケーキ屋で働き始めた。当時の給料は3万円。そのうち1万円を貯蓄し、洋裁学校の学費とした
文/赤嶺初美(ライター)・栄野川里奈子
「週刊ほ〜むぷらざ」6.23慰霊の日|戦後80年企画
第1975号 2025年6月19日掲載