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2023年9月21日更新
ハワイから豚を送られ75年|到着したうるま市に記念碑
1948年、ハワイのウチナーンチュから豚550頭が送られた。9月27日にホワイトビーチ(うるま市勝連平敷屋)へ船が到着して75年。なぜお金でなく豚が送られたのか。当時の人々の思いは? 市の担当者に聞いた。
2016年、うるま市民芸術劇場(うるま市仲嶺)の敷地に記念碑が建てられた
右から、うるま市教育委員会文化財課の前田一舟副主幹、榮野川敦さん
豚が送られたのは、終戦の3年後。「米軍の上陸前に約14万頭いた豚は戦後、約3千頭に減ったと言われています。沖縄は食料が不足し、食を支える豚も激減していました」と前田一舟さん(うるま市教育委員会副主幹)。
そんな故郷の状況を知り、立ち上がったのがハワイのウチナーンチュ2世たちだ。ハワイ連合沖縄救済会は寄付を募り、豚を送ることにした。「お金じゃなく、豚を送るアイデアがすごい。豚を育てるには、エサが必要なので畑の再興にもつながる。食糧事情の改善だけでなく、経済が回ると考えたのでは」と榮野川敦さん。550頭送ったのも、4年で200万頭にするには…と計算して決めたという。
75年前に豚が到着したホワイトビーチ(うるま市勝連平敷屋)
3度の嵐を乗り越え
救済会は、広く寄付をつのった。「ウチナーンチュだけでなく、日本人、アメリカ人、中国人など、さまざまな国の人の協力があったそうです。9カ月で5万ドルが集まりました(当時の公務員の月給は約5ドル)」と前田さん。連合国軍最高司令官マッカーサーと交渉し、船を調達。1948年8月31日、550頭の豚をのせた船は、ハワイから渡った7人と共にオレゴン州ポートランドを出航した。
「一等室に豚を入れていたが、船底からエサを運ぶのが大変だった、という証言が複数あった。豚はストレスに弱いデリケートな生きもの。豚を死なせずに運ばないと、というプレッシャーは相当大きかったのではないか」と榮野川さん。
船は3度の嵐と機雷(水中に設置され、船の接近・接触で爆発する兵器)の危機を乗り越えて、9月27日にうるま市勝連のホワイトビーチに到着した。
沖縄に運ばれた豚はヨークシャーやチェスターホワイト。当時主流だった在来種(アグー)よりも多産で丈夫な西洋種だった。陸揚げされた豚は本島の全市町村に分配され、3~4年後には10万頭を超えた。乗組員はハワイに戻った後も、郷里の小学校や公民館に学習用品を送ったという。
2016年、うるま市民芸術劇場の敷地に記念碑が建てられた。記念碑は当時のウチナーチュの思いを、今に伝えている。
船に乗った550頭の豚
※下のモノクロ写真は、すべてうるま市教育委員会文化財課提供航海中の船。豚と豚小屋が確認できる
ハワイ連合沖縄救済会の役員と、豚輸送に付き添った7人
船の上で生まれた豚の赤ちゃん
沖縄のホワイトビーチに到着
ホワイトビーチに到着後、トラックで運ばれる豚
ハワイ連合沖縄救済会の役員と、豚輸送に付き添った7人
船の上で生まれた豚の赤ちゃん
沖縄のホワイトビーチに到着
ホワイトビーチに到着後、トラックで運ばれる豚
『週刊ほ〜むぷらざ』ハワイから豚を送られ75年
第1885号 2023年9月21日掲載