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2025年10月30日更新
[沖縄スポット]本島東側の中城湾を一望、史跡が点在する古道 護佐丸の居城「中城グスク」を目指して歩く|シマ散策(拡大版)⑧
今回は、中城村にある古道「ハンタ道」とその周辺にある史跡や、護佐丸の居城として知られる中城グスクを地元の歴史に詳しい比嘉薫さんの案内で巡りました。古道は山の尾根や崖沿いを通っていて、中城湾の景色も楽しみながら散策ができます。

中城村内を南から北へ通る「ハンタ道」は15世紀、琉球王府と各地を結ぶ幹線道路(宿道)として整備された古道。地元の歴史に詳しい比嘉薫さんは「山々に沿って続く道の付近には、集落発祥の地にある御嶽やグスクなどの史跡が点在していて、歴史の道として散策が楽しめます。終点は護佐丸やそれ以前の按司たちによって築かれた中城グスクです」と説明する。

集落の歴史残る古道
首 里城を起点に中城グスクや勝連グスクなどを結ぶ古道「中頭方東海道」は、15世紀に王府と各地を結ぶ幹線道路(宿道)として整備された。中城村内を通るこの道は、山の尾根や崖沿いを通っていることから「ハンタ道(ハンタは沖縄の言葉で崖や尾根を意味する)」と呼ばれていて、その道のりは中城村南上原から中城城跡までの全長約6㌔におよぶ。現在は、歴史の道として大半が整備済みだ。
キシマコノ嶽に続くハンタ道。遊歩道が整備されている
キシマコノ嶽

キシマコノ嶽。御嶽の上には旧日本軍が造った監視哨が残る
ハンタ道の道沿いには史跡が点在している。拝所「キシマコノ嶽」もその一つ。大岩が御嶽として信仰され、戦前までは豊作祈願などが行われていた。この付近は奥間集落発祥の地といわれている。山奥にあり往来が不便なため現在の集落の近くに設けた「お通し」(遥拝所)から拝んでいる。沖縄戦では旧日本軍によってこの一帯に陣地が構築された。「大岩の上には北谷、宜野湾、中城海岸方面を見張る監視哨が造られ、壁面は米軍に発見されないように自然石をモルタルで接着しました」
新垣集落の「根所」

新垣集落の発祥の地。奥にあるのが集落の創始者の屋敷があった「根所」
新垣集落の北の丘陵にある「新垣グスク」は、14世紀に新垣集落の有力者が築いたと考えられており、沖縄の古い歌謡「おもろ」にも歌われている。後に中城グスクが勢力を強めるとその勢力下に取り込まれたという説もある。グスクは新垣集落の御嶽として崇拝されていて、付近には集落の創始者の屋敷があった「根所」や旧家の屋敷跡がある。

新垣集落の「根所」へ向かうハンタ道。うっそうとした山道が続く
「この一帯は新垣集落発祥の地とされ、13世紀から近代にかけての集落跡が見つかっています。北に冷たい北風から集落を守る山(グスク)があり、南に集落が広がっていて、沖縄の伝統的な集落形態が見られます」
根所では区長や集落の有志が行事で拝み、その年に生まれた子どもの報告を行っている。付近には生活用水として利用された井戸「ミージャーガー」がある。若水や産水、豆腐造りにも使われたという。
ミージャーガー

若水や産水としても使われた「ミージャーガー」。今も澄んだ水をたたえる
天然の要害に建つ城

比嘉さんおすすめのハンタ道のビュースポット。三つのグスクが見渡せる(上地図参照)。 左から新垣グスク、中城グスク、勝連グスク
中 城グスク付近のハンタ道は最近、整備されて通れるようになっている。

最近通れるようになった中城城跡付近のハンタ道。石畳の道が残っていて、かつての様子がしのばれる。中城城跡を経由するため見学に城跡の観覧料が必要
石畳の山道が当時をしのばせる。通り沿いには中城の神女の最高位である歴代の添石ノロが葬られていた添石ヌンドゥンチの墓がある。「添石ノロは中城グスク内の拝所をはじめ、近隣の集落の祭祀を担っていました。現在、遺骨は移されていますが、その際の調査で22の厨子甕(ずしがめ)が納められていたことが分かっています」
ハンタ道の終点である中城グスクは、東シナ海と中城湾を望む標高約160㍍の石灰岩丘陵にある。「厚い岩盤の上に城壁を築いた天然の要害です。約300余りあるとされる沖縄のグスクの中で最も遺構がよく残っています」

城壁は地形を生かした美しい曲線で構成され、特に二の郭はそれが際立っている

三の郭は石積み技法の中でも高度な相方積みによって築かれている。勝連グスクを遠望する

グスクの南端。岩盤の上に築かれた天然の要害であることが分かる
護佐丸の居城として知られるが、護佐丸以前の按司たち(先中城按司)が数代にわたって、一の郭や二の郭、南の郭、西の郭の主な部分を築き上げ、1440年に座喜味グスクから移ってきた護佐丸が三の郭と北の郭を増築して、現在のグスクの形が完成したと考えられている。「近年、一の郭の石積みの修復工事の際、城壁の内側から14世紀中頃に造られたと見られる石積みが発見されています」
グスクの南側の一の郭は城内で最も広い場所で大庭と正殿があった。二の郭は眺望が良く、勝連城跡が見える。「護佐丸は、当時王府に迫る勢力を誇った勝連城主から中山王を守るために中城を賜り、その備えとして三の郭を築いたともいわれています」
小城の御イベ

南の郭にある久高島への遥拝所「小城の御イベ」。グスク内には八つの拝所がある
大井戸(ウフガー)

北の郭にある大井戸(ウフガー)。グスク内に水場を確保するために北の郭を増築したと伝わる
ペリーの旗立岩

新垣にある「ペリーの旗立岩」。1853年に琉球に来訪した米国のペリー艦隊の中から組織された探検隊がこの場所に立ち寄り、大岩の上に星条旗を立てて岩山征服の祝砲を撃ったという記録が残されている。地元では「ターチャーイシ(二つ岩)」とも呼ばれている
1458年、護佐丸は首里軍と勝連城主・阿麻和利によって滅ぼされる。その後、中城は国王の世継ぎである中城王子の領地になった。一の郭には現在の役所にあたる番所が置かれ、廃藩置県後は中城役場として使われたが沖縄戦で消失した。
案内してくれたのは

比嘉 薫さん
中城村出身で地元の歴史に興味を持ったのがきっかけで、過去には中城城跡や歴史の道のガイドを務めていた
取材/池原拓 『週刊ほ〜むぷらざ』シマ散策
第1994号 2025年10月30日掲載














