体験・遊ぶ
2025年5月1日更新
[沖縄スポット]察度(さっと)王生誕の地|羽衣伝説の湧泉|シマ散策(拡大版)
宜野湾市真志喜・大謝名地域は、14世紀に琉球で初めて中国との公式貿易を行った中山王・察度が生まれ育った地。今回は、宜野湾市文化財ガイド「察度の会」の会長、國吉真由美さんに察度王ゆかりの史跡などを案内してもらいました。
天女降りた湧泉 察度最初の居城
【宜野湾市 真志喜・大謝名】宜野湾市の西に位置し、東シナ海に接する真志喜・大謝名地域には、天女を母とする察度の羽衣伝説の舞台となった「森の川」や、察度の最初の居城「黄金宮」などの史跡がある。宜野湾市文化財ガイド「察度の会」の会長、國吉真由美さんは「琉球王国の繁栄の礎を築いた察度は、残念ながらその功績をあらわす文化財や文献は少なく、まだまだ謎が多い」と話す。
奥間大親と天女の出会いの場所
真 志喜地域の南、石灰岩の崖下にある湧泉「森の川」は、湧泉で水浴びをしていた天女と奥間大親(ウフヤ)が出会ったという羽衣伝説の舞台として知られている。2人の間に生まれたのが後の中山王・察度だと伝えられている。森の川は、拝所と生活用水である洗い場が明確に分けられているのが特徴。拝所は石垣で円形に仕切られていて、拝所の水が暗渠(あんきょ)を通って少し掘り下げられた洗い場に流れる造りになっている。國吉さんは「湧泉は元は崖にある洞窟から湧き出た水を受ける、クムイ(池)のような場所だったと考えられています。18世紀、向氏伊江家によって石垣に囲まれた湧泉(カー)として整備されました」と説明する。向氏伊江家は、第二尚氏・尚清王(在位1527年 〜 1555年)の第七子を初代とする家系。初代・伊江王子朝義の母は、奥間大親の子孫にあたると言われている。
森の川

拝所と洗い場が明確に分けられた湧泉「森の川」。拝所へは右の石畳道を通って行く。1967年に県指定名勝に指定された

森の川の拝所。入り口には、まぐさ石という長方形の石が置かれ門を形作っている

森の川の洗い場。戦後は水源として利用され、ポンプ室やコンクリート壁などで大きく姿を変えたが、琉球政府の名勝指定により修復された

森の川がある森川公園は高台にあり、展望台から東シナ海が望める
森の川の水源である崖は、「ウガンヌカタ(西森御嶽)」という真志喜の重要な聖地で、奥間家の祖である真志喜大神の墓とされる「マヤーアブ」など複数の洞窟がある。崖の麓には、長さ約18メートルの石門が築かれている。「石門も向氏伊江家によって整備されました。現在、一般的な拝みは石門の前で行われ、奥間門中だけが奥にある神墓を拝みます」。石門の内側には整備に関する記念碑「西森碑記」がある。碑文にある建立者名には、王府の要職である三司官に就いた向和声の名もある。「18世紀、王府は士族に各自の家筋を明らかにした系図の提出を求めました。当時の向氏伊江家による湧泉と御嶽の整備は、一族の血筋を大事にしている証にもなりました」
西森御嶽

向氏伊江家によって整備された「西森御嶽の石門」。左奥にはその記念碑がある
神酒森

「神酒森(ウンサクムイ)」は、関係者以外立ち入ることができない西森御嶽への遥拝所として重要な拝所。新米を供え豊穣を感謝する6月ウマチーに拝まれる。拝所で子どもの出生報告を行った後に御神酒(ウンサク)を村人に振る舞ったのが名前の由来
交易の拠点となった黄金宮
大 謝名地域の南、比屋良川付近にある「黄金宮(クガニナー)」は、察度の最初の居城とされる。察度は勝連按司の娘・真鍋樽と結婚し、ここに住んだという。伝説では、察度の畑に転がっていた黄金を大和(日本)の鉄と交換し、農民に鉄製の農具を配って人望を得たといわれている。
察度がいた700年前は、黄金宮の北西、現在の大謝名小学校の辺りは入り江(港田原)になっていて、その周辺には大和船に水を供給したとの伝承が残る「大和ガー」や、察度の倉庫跡と言われる「大謝名原古瓦出土地」がある。「倉庫跡とされる場所から14世紀の高麗瓦や青磁、陶器片などが出土していて、察度が港田原を拠点に交易をしていたのではと考えられています」
その後、察度は浦添按司になり、1350年に中山王となった。1372年には琉球で初めて中国(明)と公式に貿易を行い、朝鮮や東南アジアなどの国々とも交易するようになり、後の琉球王国繁栄の基礎を築いた。「察度は、残念ながらその功績をあらわす文化財や文献が少なく、まだまだ謎が多い人物。会では、地元の偉人を広く知ってもらうためにガイドツアーを定期的に行っています」
取材ではほかに、察度の産湯を汲んだとされる「カンガー」や、中国への使者を務めた察度の弟・泰期の墓「カニマン墓」などを案内してもらった。
黄金宮

察度の最初の居城「黄金宮」。戦後は米軍の住宅地として開発され、発掘調査は行われていないが、わずかな範囲の調査で貝類、陶磁器片、青磁片、石斧などが見つかっている
真志喜・大謝名地域は水が豊かな地域で、湧泉が点在している。黄金宮の近くにある「大謝名メーヌカー」は、かつて大謝名の人びとが生活用水や若水・産水などに使ったヒージャーガー※。獅子舞など年中行事でも拝まれる。
※遠くの水源から水路を引き、樋(とい)から水が出る形式の井泉
大謝名メーヌカー

澄んだ湧き水をたたえる「大謝名メーヌカー」。上部には水の神を祀る香炉がある

「大謝名メーヌカー」の湧き水が出る三つの樋口。周辺には市指定天然記念物のタニコケモドキがみられる

大謝名メーヌカーに通ずるカービラは市指定文化財
大 謝名地域の南、比屋良川付近にある「黄金宮(クガニナー)」は、察度の最初の居城とされる。察度は勝連按司の娘・真鍋樽と結婚し、ここに住んだという。伝説では、察度の畑に転がっていた黄金を大和(日本)の鉄と交換し、農民に鉄製の農具を配って人望を得たといわれている。
察度がいた700年前は、黄金宮の北西、現在の大謝名小学校の辺りは入り江(港田原)になっていて、その周辺には大和船に水を供給したとの伝承が残る「大和ガー」や、察度の倉庫跡と言われる「大謝名原古瓦出土地」がある。「倉庫跡とされる場所から14世紀の高麗瓦や青磁、陶器片などが出土していて、察度が港田原を拠点に交易をしていたのではと考えられています」
その後、察度は浦添按司になり、1350年に中山王となった。1372年には琉球で初めて中国(明)と公式に貿易を行い、朝鮮や東南アジアなどの国々とも交易するようになり、後の琉球王国繁栄の基礎を築いた。「察度は、残念ながらその功績をあらわす文化財や文献が少なく、まだまだ謎が多い人物。会では、地元の偉人を広く知ってもらうためにガイドツアーを定期的に行っています」
取材ではほかに、察度の産湯を汲んだとされる「カンガー」や、中国への使者を務めた察度の弟・泰期の墓「カニマン墓」などを案内してもらった。
黄金宮

察度の最初の居城「黄金宮」。戦後は米軍の住宅地として開発され、発掘調査は行われていないが、わずかな範囲の調査で貝類、陶磁器片、青磁片、石斧などが見つかっている
真志喜・大謝名地域は水が豊かな地域で、湧泉が点在している。黄金宮の近くにある「大謝名メーヌカー」は、かつて大謝名の人びとが生活用水や若水・産水などに使ったヒージャーガー※。獅子舞など年中行事でも拝まれる。
※遠くの水源から水路を引き、樋(とい)から水が出る形式の井泉
大謝名メーヌカー

澄んだ湧き水をたたえる「大謝名メーヌカー」。上部には水の神を祀る香炉がある

「大謝名メーヌカー」の湧き水が出る三つの樋口。周辺には市指定天然記念物のタニコケモドキがみられる

大謝名メーヌカーに通ずるカービラは市指定文化財

案内してくれたのは

宜野湾市文化財ガイド「察度の会」
國吉真由美さん
察度の会は、宜野湾市の史跡や戦跡のガイドを務めている。察度にちなみ、毎年、3月10日前後には察度王ゆかりの地を訪ねるツアーを企画している
取材/池原拓
『週刊ほ〜むぷらざ』シマ散策
第1968号 2025年05月01日掲載