新城和博
2025年11月20日更新
20年ぶりのリンダ リンダ リンダ|新城和博さんのコラム
ごく私的な歳時記Vol.130|首里に引っ越して30年ほど。「ボーダーインク」編集者でライターの新城和博さんが、季節の出来事や街で出会った興味深い話題をつづります。
首里を散歩するようになって31年たつ。つまり結婚、出産を機に引っ越ししてそれだけたったということだ。自分の年齢を考えてみると、人生のおよそ2分の1である。なにかの間違いではないかと思うが、歩きながらまわりを見渡してみると、いろいろずいぶん変わったなぁという、31年分の感慨が街のここかしこにしみ出している。
人生の2分の1の首里でも、またその半分は儀保町の大きなトックリキワタの木と小さな桜の木の間のある家に住んでいて、のこりの半分は鳥堀町の、那覇市で一番標高のある森のそばにちょこんと建ったレンガの壁と木造の家で、のぼる月を眺めてきた。ということは儀保町4の1、鳥堀町4分の1が、ぼくのスライス・オブ・ライフということになる。

儀保町4分の1の家のころ、娘と一緒によく映画を観に行った。幼稚園のころは、ピクサーのアニメ、小学生のころはジブリと、なんと言ってもハリー・ポッター。
一緒に行ったなかで、時折思い出す映画がある。ぼくが観たいと思って、たぶん小学校高学年だったらなんとなく大丈夫だろうとおもったその作品は「リンダ リンダ リンダ」(山下敦弘監督)。ある秋の日、娘と家でごろりんとしていた午前中、ふと思い立って、いまならまだ上映時間に間に合うと、首里から車を安全運転でぶっとばして、桜坂劇場に滑り込んだ。そんな感じで憶えている。
桜坂劇場は、昔からあった映画館を新たにリニューアルという感じでスタートした、いわゆるミニシアターである。運営しているスタッフは昔からの知り合いも多く、新しい那覇のカルチャー拠点の誕生という感じ。2005年当時、もちろんシネマコンプレックスという複合映画館施設はあちこちにあったが、那覇の繁華街にもかろうじていくつか映画館がまだあった。
「リンダ リンダ リンダ」は、高校の文化祭で即席に組むことになった軽音部の女子高生バンドが文化祭最終日に体育館でライブをするまでの三日間を描いた、青春映画の傑作だ。ギター、ベース、ドラム、ボーカル四人組の「パーランマウム」がブルーハーツのナンバーを演奏するシーンの全てが素晴らしく胸キュン(まだ「エモい」という言葉がなかった)で、演じた彼女たちの本人の演奏は、ロックの初期衝動を見事に表現していて、ぼくはその場でサントラ盤(懐かしい響き!)を買ったのだ。ボーカル役のペ・ドゥナを初めて知ってファンになり、しばらく彼女の出る韓国と日本の映画を見続けた。
見終わった小五の娘に「おもしろかったなあ」と聞くと、にんまりとうなずいた(記憶のねつ造か)。
それから今までぼくはずっとそのサントラを聞いて、「僕の右手」「終わらない歌」そしてもちろん「リンダ リンダ」を、ペ・ドゥナのような歌い方でうたっていた。ちなみに音楽はスマッシング・パンプキンズのジェームス・イハである(沖縄ルーツだ)。「リンダ リンダ リンダ」はその後日本のみならず全世界で見続けられ、アメリカでは「リンダ リンダズ」というガールズバンドも登場した。だれもがバンドをしたくなる映画なのだ。
◇ ◇ ◇
あれから20年たち、いまや「ゼロ年代青春映画の金字塔」と言われるまでになっていた「リンダ リンダ リンダ」が4Kバージョンで全国、いや世界上映がきまった。当然桜坂劇場にも来るだろうと待ちかまえていた。じつはあれ以来一度もDVDでも観ていないない。いつかまた劇場で観たいとおもっていたのだ。
そして秋の気配がしのびよってきたころ、桜坂劇場に「リンダ リンダ リンダ」がやってきた。ちょうど東京から鳥堀町4分の1の家に東京から帰省していた娘といっしょに20年ぶりに観に行くことにした。その日は、ちょうど那覇大綱挽きの日。旗頭行列を国際通りで観て、のうれんプラザで絶品タコスを食べて、旗頭のキャランキャランの鉦音の余韻のなか、桜坂劇場へ。
サントラを聴き続けてきたからか、つい昨日観たかのように全てのシーンを鮮やかに憶えていた「リンダ リンダ リンダ」、あのときのままの感動が蘇ってきた。なんだやっぱり傑作じゃないか! 娘も小学生のとき観た「リンダ リンダ リンダ」はよく憶えていて、大好きな映画のひとつだった。やっぱりね。高校時代、映研で映画を撮っていた彼女は何度か見直していたらしい。そうだったのか。
見終わって娘に20年ぶりに「やっぱりおもしろかったなぁ」と聞くと、当然という顔をして頷いた。
桜坂劇場は20年前にスタートした。那覇大綱挽きは戦後復活して55年たった。みんないろいろ続いている。そうか「終わらない歌」は那覇の街にも響いていたのだ
人生の2分の1の首里でも、またその半分は儀保町の大きなトックリキワタの木と小さな桜の木の間のある家に住んでいて、のこりの半分は鳥堀町の、那覇市で一番標高のある森のそばにちょこんと建ったレンガの壁と木造の家で、のぼる月を眺めてきた。ということは儀保町4の1、鳥堀町4分の1が、ぼくのスライス・オブ・ライフということになる。

一緒に行ったなかで、時折思い出す映画がある。ぼくが観たいと思って、たぶん小学校高学年だったらなんとなく大丈夫だろうとおもったその作品は「リンダ リンダ リンダ」(山下敦弘監督)。ある秋の日、娘と家でごろりんとしていた午前中、ふと思い立って、いまならまだ上映時間に間に合うと、首里から車を安全運転でぶっとばして、桜坂劇場に滑り込んだ。そんな感じで憶えている。
桜坂劇場は、昔からあった映画館を新たにリニューアルという感じでスタートした、いわゆるミニシアターである。運営しているスタッフは昔からの知り合いも多く、新しい那覇のカルチャー拠点の誕生という感じ。2005年当時、もちろんシネマコンプレックスという複合映画館施設はあちこちにあったが、那覇の繁華街にもかろうじていくつか映画館がまだあった。

「リンダ リンダ リンダ」は、高校の文化祭で即席に組むことになった軽音部の女子高生バンドが文化祭最終日に体育館でライブをするまでの三日間を描いた、青春映画の傑作だ。ギター、ベース、ドラム、ボーカル四人組の「パーランマウム」がブルーハーツのナンバーを演奏するシーンの全てが素晴らしく胸キュン(まだ「エモい」という言葉がなかった)で、演じた彼女たちの本人の演奏は、ロックの初期衝動を見事に表現していて、ぼくはその場でサントラ盤(懐かしい響き!)を買ったのだ。ボーカル役のペ・ドゥナを初めて知ってファンになり、しばらく彼女の出る韓国と日本の映画を見続けた。
見終わった小五の娘に「おもしろかったなあ」と聞くと、にんまりとうなずいた(記憶のねつ造か)。
それから今までぼくはずっとそのサントラを聞いて、「僕の右手」「終わらない歌」そしてもちろん「リンダ リンダ」を、ペ・ドゥナのような歌い方でうたっていた。ちなみに音楽はスマッシング・パンプキンズのジェームス・イハである(沖縄ルーツだ)。「リンダ リンダ リンダ」はその後日本のみならず全世界で見続けられ、アメリカでは「リンダ リンダズ」というガールズバンドも登場した。だれもがバンドをしたくなる映画なのだ。
◇ ◇ ◇
そして秋の気配がしのびよってきたころ、桜坂劇場に「リンダ リンダ リンダ」がやってきた。ちょうど東京から鳥堀町4分の1の家に東京から帰省していた娘といっしょに20年ぶりに観に行くことにした。その日は、ちょうど那覇大綱挽きの日。旗頭行列を国際通りで観て、のうれんプラザで絶品タコスを食べて、旗頭のキャランキャランの鉦音の余韻のなか、桜坂劇場へ。

サントラを聴き続けてきたからか、つい昨日観たかのように全てのシーンを鮮やかに憶えていた「リンダ リンダ リンダ」、あのときのままの感動が蘇ってきた。なんだやっぱり傑作じゃないか! 娘も小学生のとき観た「リンダ リンダ リンダ」はよく憶えていて、大好きな映画のひとつだった。やっぱりね。高校時代、映研で映画を撮っていた彼女は何度か見直していたらしい。そうだったのか。
見終わって娘に20年ぶりに「やっぱりおもしろかったなぁ」と聞くと、当然という顔をして頷いた。
桜坂劇場は20年前にスタートした。那覇大綱挽きは戦後復活して55年たった。みんないろいろ続いている。そうか「終わらない歌」は那覇の街にも響いていたのだ
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ライター/編集者
1963年生まれ、那覇市出身。沖縄の出版社「ボーダーインク」で編集者として数多くの出版物に携わるほか、作詞なども手掛ける。自称「シマーコラムニスト」として、沖縄にまつわるあれこれを書きつづり、著書に「うちあたいの日々」「<太陽雨>の降る街で」「ンバンパッ!おきなわ白書」「道ゆらり」「うっちん党宣言」「僕の沖縄<復帰後>史」などがある。













