故郷は眠りについていた|新城和博のコラム|fun okinawa~ほーむぷらざ~

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新城和博

2021年11月10日更新

故郷は眠りについていた|新城和博のコラム

ごく私的な歳時記Vol.89|首里に引っ越して20年。「ボーダーインク」編集者でライターの新城和博さんが、この20年も振り返りながら、季節の出来事や県産本の話題をつづります。

久しぶりに那覇・国際通りで人波をみた11月。緊急事態宣言が解除されたのだ。観光客の通りの満ち引きは激しい。一方、那覇の牧志公設市場かいわいで、コロナ禍でも地元の買い物客でそれなりのにぎわいがずっとあったのは太平通り。午前10時ごろから開き始める青果屋さんや惣菜屋さんは、マチはいつも通りだよという顔つきで、午後5時頃になると店じまいの支度を始める。変わらない風景があるというのは、この期間中、特にありがたいものだと思った。



でももやっぱり、街の風景はずいぶん変わった。長年そこにあったはずの建物が、いつのまにやら消え去り、その一角が空白になっている。街の隙間が増えたのだ。向こう側の景色が透けてみえているようで、いわゆるシカラーサンという気分になる。
ここは「心寂しい」といっておこうか。
開南バス停から平和通りに向かって下っていくサンライズ那覇通りは、かつて新栄通りという名で、びっしりと中小、多くの商店が立ち並んでいた。それが現在ごそっと左上下の奥歯前歯が抜け落ちたかのように、通り半分がすかすかになっていた。新型コロナウイルスだけのせいじゃないだろうが、あらためて眺めてがくぜんとした。






開南バス停は、那覇から南部へいたるバス交通の要所として、ぼくの記憶の中ではいつも人混みだらけだった。今は夢から覚めたかのように、人影まばらだ。
「復帰50年」にまつわる記憶として僕が選んだ開南バス停の風景を、20代のテレビディレクターに説明しても、買い物客や通勤・通学でバスを待つ人たちで、ごったがえしていたことを信じてはもらえない。もちろんバスを待つ人たちはそれなりにいるのだけど、こんなんじゃなかったんだよと、なぜか言葉に力が入る。
しかしあらためてぐるりと一帯を眺めると、道路拡張工事によって、右上下、さらに右下の奥歯前歯がごっそり抜け落ちたかのように、さっぱりと建物がないのだ。だんだん不安になる。ぼくの記憶の方が間違っているんじゃないか、とさえ思う。



ぼくは生まれも育ちも那覇で、ここ以外に居住したことがないという、極めて移動スケールの小さい人間だ。結婚するまで過ごした家は開南バス停から歩いて3分かからない。だからこのかいわいは、まぎれもなく地元だった。しかし親が離島出身だったこともあるのか、自分がナーファンチュ(那覇人)という気持ちはほとんどなかった。
まぁこのあたりはもともとは「真和志村」「みなと村」だったらしいけど。
でもいま、ぼくがずっと心の中で抱きしめていた開南バス停の風景はなくなった。
スカスカになったバス停のうしろに透けて見えるものはもうなにもない。ただ漠然と開けた空間のそこかしこに、もう二度と戻ることはできない場所と時間があった。そのとき初めて、ここがぼくの故郷なんだなと口に出すことができた。故郷が、できたのだ。
遠く離れて思わなくても、すぐそばでしずかに故郷・開南はしずかに眠りについていた。

新城和博

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ライター/編集者
1963年生まれ、那覇市出身。沖縄の出版社「ボーダーインク」で編集者として数多くの出版物に携わるほか、作詞なども手掛ける。自称「シマーコラムニスト」として、沖縄にまつわるあれこれを書きつづり、著書に「うちあたいの日々」「<太陽雨>の降る街で」「ンバンパッ!おきなわ白書」「道ゆらり」「うっちん党宣言」「僕の沖縄<復帰後>史」などがある。

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