ランに導かれて沖縄に|山口行孝さん(ビオスの丘)|fun okinawa~ほーむぷらざ~

沖縄で暮らす・食べる
遊ぶ・キレイになる。
fun okinawa 〜ほーむぷらざ〜

沖縄の魅力|スマイリー矯正歯科

わたしらしく

My Style

2018年9月28日更新

ランに導かれて沖縄に|山口行孝さん(ビオスの丘)

ヤマトンチュの沖縄ライフ『楽園の暮らし方』<vol.06>
沖縄に移住した人たちの「職」と「住」から見えてくる沖縄暮らしのさまざまな形を紹介します。

ビオスの丘
山口行孝さん(うるま市)



ラン栽培の専門家、山口行孝さんは、勤めていた会社が沖縄にラン農場を立ち上げることになり26歳で沖縄に。会社がうるま市に開園した自然植物園「ビオスの丘」の20年の歩みを誰よりも長くそばで見守ってきた
 

森で働き、海のそばで暮らす

東京の農業大学に通っていたある日、山口行孝さん(63)は園芸店で一鉢のランを買った。黄色いパフィオペディルム。花弁が袋状になっていて、別名“女神のサンダル”や“貴婦人のスリッパ”とも呼ばれる。
「ランはなかなか花が咲かない植物です。だからなおさら咲かせてみたくなる」
大学では海外の農業を専門的に学んでいた。将来は中南米かどこかで農業に従事したいと考えていたが、ランを育てるうちに興味がそちらに傾いた。卒論のテーマはラン、就職先もラン栽培で有名な静岡の会社を選んだ。そこの研究室に勤務してランのクローン栽培などを行った。
「新芽から“成長点”と呼ばれる細胞の塊を取り出してカミソリで分割するんです。一回切ると二つ、二回切ると四つと増えていく。一本のランを1万株に増やしたこともあります」
入社して3年がたった頃、会社がラン栽培の拠点を静岡から沖縄に移すことになった。「お前、沖縄に行くか」と転勤を打診されて、「いいですよ」と軽い気持ちで返事をした。37年前の話だ。
「今思えば、大学時代にあのランを買ったことが、回り回って沖縄への移住につながったのだと思います」


琉球松、ヒカゲヘゴ、アコウ、ガジュマルなど、沖縄ならではの植物が生い茂るビオスの丘。「20年たって植物がだいぶ大きくなり、園内の雰囲気が成熟してきました。これから10年後20年後、植物たちがこの場所をさらによりよくしていってくれるでしょう」と山口さんは話す


ビオスの丘名物の遊覧船から水辺の自然を観察できる人工湖「大龍池(うふたちぐむい)」のビフォーアフター(上の写真はビオスの丘提供)。川をせきとめてラン栽培用の貯水池にしていたところを、水を抜き、外来魚を駆除するなどした上で水を戻し、湖にした
 

“何もない”植物園

農場は、本島中部を流れる天願川上流の石川高原に造られた。立ち上げ時のメンバーは社長を入れて4人。松林だった山を切り開いて、自分たちで100坪のビニールハウスを5棟建てた。
「海外の農場で働く夢は実現しませんでしたが、代わりに沖縄に来て何もない所を開墾することになったわけです(笑)」
新たな農場で、山口さんは再びランの栽培にいそしんだ。生産量がピークに達したバブル景気の頃には100万本の苗がハウスにひしめいた。
ラン栽培の一方で、会社は育てたランを沖縄の自然とともに見てもらう植物園を造る計画に乗り出した。本土から著名な造園家や植栽設計の専門家らを招いて数年がかりで整備を行い、1998年に施設を開園した。「ビオスの丘」だ。
「目指したのは、沖縄から消えつつある野山の風景を楽しめる施設を造ることでした。ここに元々あった琉球松などは生かし、外来種は大部分を取り除きました。新たに持ち込む植物も、クバやアコウといった土着性の高いものを選んで植えました」
オープン当初は、張ったばかりの芝生が十分に育っておらず、雨が降ると地面がぐちゃぐちゃにぬかるんだ。施設の一番の目玉である人工湖の「大龍池」も、整備したてでダム湖のように殺風景。「なんにもないじゃない」と言って帰るお客さんもいた。


ガラス張りが印象的な「東村屋(あがりむらや)」は、建物の中にいながら森とふれあえる施設。園のランドスケープデザインを行った田瀬理夫さんのアイデアで屋上が緑化されている。中にカフェがある

ビオスの丘と歩んだ20年

だが、自然以外に何もないことの良さをお客さんが理解するにつれて、「ほっとできる」、「子どもが帰りたがらない」といった声が聞かれるようになった。
「何もないのになぜか落ち着く。そこがビオスの丘の一番の魅力なのかもしれません」
開園の翌年、山口さんはラン栽培からビオスの丘の営業兼販売担当に配置換えになった。植物相手から人相手の仕事にいきなり変わり最初は少し戸惑ったが、生来「何とかなる」と考える性格。「目先が変わっておもしろい」と新たな仕事を楽しんだ。
3年前に定年を迎えてからも会社に残り、統括部長として施設の運営を取り仕切ってきた。しかし胸の中には、こんな引き際の美学を秘めている。
「いつまでも僕がここに居過ぎると次の世代が育ってこない。それに体力がある60代のうちにバイクで日本一周してみたい夢もあるしね」
「だけど」と山口さんが話を続けた。
「そのあとにまたここに戻って来て、ボランティアで園内ガイドをするのもいいかもね」
自分は長男だから故郷の名古屋に帰らなくてはいけなくなる日が来るかもしれない。だけど沖縄にいるうちはここに関われたら―。静かに語る声の奥に、20年見守り続けてきたビオスの丘への深い思いが響いていた。



ビオスの丘が開園する数年前、山口さんは職場から車で10分の場所に土地を買い、家を建てた。設計にはビオスの丘のプロジェクトで中心的役割を果たした造園家の田瀬理夫さんも関わった。「屋上緑化は田瀬さんのアイデア。壁にブーゲンをはわせたらとアドバイスしてくれたのも田瀬さん。おかげで屋根と壁が断熱されてコンクリートの家なのにクーラーを入れていない。そこは自慢です」


庭やベランダから金武湾の絶景が。「せっかく沖縄で家を建てるなら海が見える場所がいいと思っていました。よい土地にめぐりあえました」


庭から秘密の坂道を3分ほど下るとプライベートビーチのような砂浜に。「自宅はこんな環境でしょう? 職場はビオスの丘でしょう? 海も山もいつもそばにあるから、自然を求めてどこか遠くに行きたいと思うことがないです」


4人の娘さんは皆本土にいるため、妻の由美子さんと2人暮らし。20畳を超える広いリビングルームには、趣味にしている釣りの道具や「娘の人数分、完走メダルを集めたくて始めた」フルマラソンを走るためのトレーニング器具が置かれている


料理をしながら洗濯もできるキッチンは由美子さんのお気に入り。「効率よく家事ができるので共働きだった頃は助かりました」。山口さんが料理の腕を振るうことも多い。「魚は主人が料理します。私だと魚が成仏できないと言って(笑)」


文・写真 馬渕和香(ライター)


毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞
第1708号・2018年9月28日紙面から掲載

My Style

タグから記事を探す

この記事のキュレーター

スタッフ
週刊タイムス住宅新聞編集部

これまでに書いた記事:70

沖縄の住宅、建築、住まいのことを発信します。

TOPへ戻る