彩職賢美
2015年6月4日更新
[彩職賢美]喜納商店店主 喜納千鶴子さん|受け継ぎ伝えるウチナーグチ
沖縄県那覇市で喜納商店を営み60年。7人の子どもを育て上げ、今も現役で店に立つ喜納千鶴子さん(92)。自身が祖母や母から習ったウチナーグチのムンナラーシ(教え)をまとめた本「チルグヮーのむんならーし」を昨年出版した。「生マリ島ヌ言葉忘リーネー、自分失イン(故郷の言葉を忘れたら自分を失う)」と、ウチナーグチの継承へ強い思いを抱く。
言葉に沖縄の心がある
「チルグヮーのむんならーし」著者
喜納商店店主
喜納 千鶴子さん
「ウチナーグチには、しみじみとした深みがある。人付き合いを大切にする沖縄の心がある」と実感を込める喜納さん。
本に収めた言葉は、ほとんどが子どものころに祖母や母から聞いたウチナーグチの教えだ。本部町の農家に生まれた喜納さん。「おばあちゃんは地元で有名な機織りでね、大きなカメが六つあって糸の染めから自分でしていた。妹や弟をおぶりながら、話を聞いたさ」。身振り手振りを交え、張りのある声で描写する。
最初にウチナーグチを強く意識したのは、小学校4年生のころ。学校で「アガー」の一言で、方言札(方言を罰するための札)をかけられた。内気な性格で、死にたくなるほど恥ずかしかったという。罰金5銭を払わなければならず、祖母に話すと「ヤマトに支配されて、先祖代々継いできた言葉までなくすのか。学校に行って話しをする」と激怒。泣きながら家に帰ったが、言葉は胸に響いた。
お菓子を買いに来た子どもたちとユンタク(おしゃべり)をする喜納さん。喜納さんとのユンタクを楽しみに来る常連客が多く、店頭にはイスやビール瓶ケースが置かれている
その後も長く、標準語教育が続く。喜納さんは違和感を感じながらも、戦中、戦後と時代の波に飲まれ、言葉を意識する余裕は無かった。
戦時下の青春時代、十代後半で青年団に入り、2メートルの竹やりでワラ人形を突く訓練に参加。伊江島で飛行場作りの土運びもした。長兄は25歳で南シナ海で戦死。同級生の男性も多くが亡くなった。
終戦後に結婚。那覇に出て一から商売を始めた。当初は子どもを抱えながら慣れない商売に戸惑い泣いたことも。
それでも徐々に商品を増やし、32歳で現在の「喜納商店」を構える。物の無い時代で、よく売れた。「いつ寝たか分からない」ほど必死で、7人の子どもを大学まで卒業させた。ようやく生活が落ち着いてきた60代に夫、20歳の娘を亡くす。
いろいろあった人生の折々で、ムンナラーシが支えになった。挑戦するときは「サンルナランル セーナイサ(やらないからできない。やればできる)」。辛いときには「熱湯ヌ冷マイネー 冷マチイキヨーヤー(熱い湯は一気に冷めない。傷ついた心もゆっくり元気になっていく)」。何度も心でつぶやいた。
生活でウチナーグチを使い続けてきたが、「恥ずかしいから使わないで」とたびたび言われて肩身が狭く、標準語を使うことが増えた。意識が変わったのは、72歳に「沖縄語普及協議会」に入ってから。「学は弱いけど、ウチナーグチを分かるのは私たちの世代。自分にも自信が出た」。
その後、商店に来ていた玉那覇展江さんに話したムンナラーシがミニコミ紙の連載になり、91歳で本が出版された。振り付きでウチナーグチの歌を作り、自分史も作成するなど、創作意欲は旺盛だ。2年前から戦争の語り部も始めた。
今も毎日店に立ち、客とのユンタクを楽しむ。「この年まで生きると思わなかったけど、何歳ニナティン肝ヤ童。今カラドー(何歳になっても心は子ども。これからさー)」笑顔が弾けた。
Q.若い人に伝えたい言葉はありますか。
「我産チェル親ヤ 産シル産シミソチ 意地智賢サヤ 我身ヌ優リ(親は産み育てただけ。勇気、知恵、賢さ、強さは自分の中にある)」という言葉です。不満を持ったときに親や育ちのせいにするのではなく、「勇気や知恵が自分にある。自分の努力によって、いい道にいく」と思うことで、前向きに進んでいけると思うのです。
「母から習った教えと私が残したい言葉 チルグヮーのむんならーし」
心がハッとするウチナーグチの教え満載。
著者:喜納千鶴子、玉那覇展江(聞き取り、編集)
1,000円+税
<問い合わせ>
沖縄タイムス社出版部
098-860-3591
PROFILE
喜納千鶴子(きな・ちずこ)1923年、本部町豊原(旧桃原)生まれ。3男4女の母。1955年から那覇市松尾で「喜納商店」を営む。現在も、店主として毎日店に立つ。2009年から沖縄タイムス販売店ミニコミ紙に、「チルグヮーのむんならーし」を連載。2014年に本として出版。好評で4カ月後に2刷される。沖縄語普及協議会会員。
[今までの彩職賢美 一覧]
撮影/比嘉秀明・編集/栄野川里奈子
『週刊ほーむぷらざ』彩職賢美<1171>
第1455号 2015年6月4日掲載