彩職賢美
2023年4月13日更新
夫の急逝で社長に 「首里豆腐」の新しい魅力を発信する、50歳2児の母[彩職賢美]
照屋食品は豆腐製造業で創業54年。3年前、夫の急逝で突然、事業を承継し、50人以上の社員が在籍する会社の代表となりました。経営のことも、豆腐づくりのことも分からず、不安で押しつぶされそうになるのを、家族と社員に支えられ乗り越えることができました。
撮影/比嘉秀明
豆腐で地域と未来に貢献
(株)照屋食品 代表取締役社長
照屋ゆきのさん
豆腐の新しい魅力発信
おいしいの笑顔が力に
「首里豆腐」と呼ばれ、親しまれて54年。(株)照屋食品の創業者である義父を7年前に、2代目代表だった夫も3年前に亡くし、照屋ゆきのさん(50)は突然、50人の社員が在籍する会社の3代目代表となった。
病床の夫は「絶対に治して戻る」と言い続け、事業承継のことを全く話さなかった。しかし、1年半の闘病のかいなく他界。照屋さんはその悲しみに浸る余裕もないままに、後を継ぐことになった。「経営のことも、豆腐作りのことも分からない。当時は、私にはできない、会社を辞めたいというのが本音。前向きなことは考えられなかった」と明かす。
そんな失意と不安の中にいる照屋さんを、社員は懸命に業務をこなし支えた。その姿に感謝しながらも、「自分を責めた」と話す照屋さん。社員や家族の生活を守る自信が持てず、眠れない日が続く。心身は悲鳴を上げた。病院で診療を受け、「眠れるようになってから、やっと思考も回るようになった」と振り返る。「自分を取り戻せた」のは家族の存在。「コロナに感染し、自宅で子どもたちと映画を見たり、料理をしたり、家族でゆっくり過ごしたとき、気持ちがリセットできた」と笑顔を見せる。
2人の娘はお父さん子だった。末娘がある日、「お母さん、治って良かったね」と声を掛けてくれた。「父親を亡くした娘たちが、落ち込む母を支えようとしていたことに改めて気付きました。学校を休まず通ったのも、きっと母親に余計な心配を掛けまいという気持ちがあったと思います」。家族と社員の支えに感謝を口にする照屋さん。その頬に大粒の涙が伝う。
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学校給食や業務用の豆腐商品を多く扱う照屋食品は、コロナ禍による休校で学校給食が止まるなど大きな打撃を受けた。しかし、その逆境が新商品開発や社会貢献といった取り組みへとつながった。
豆腐製造は大豆の搾りかすである「おから」が大量に出る。以前はそのほとんどが廃棄処分されており、有効活用について模索していた。そんな中、新垣カミ菓子店と出合った。コロナ禍に原材料の価格高騰も重なり、観光客に頼らない形での販路拡大が課題だった同店と連携。「おからちんすこう」を開発した。無償提供したおからで、新垣カミ菓子店が製造。それを照屋食品が仕入れ、学校給食へ提供している。
「おからちんすこうは、食物繊維が豊富で、食料廃棄の課題解決にもつながる。子どもたちがおいしいと笑顔で食べているのを見て、関係者みんなと喜び合い、大きなやりがいを感じています」と声を弾ませる。4月には一般販売も予定しており、SDGsの取り組みとして力を注ぎたいと意気込む。
照屋さんは「皆さんに愛されてきた首里豆腐を食卓に届けたい」と、撤退していた県内スーパーでの豆腐販売を再開した。2021年に義務化された衛生管理基準HACCP(ハサップ)で、「アチコーコー豆腐の販売が難しくなり、スーパーからの撤退を決めたが、今もどこで買えるのか問い合わせがある。首里豆腐を愛してくださる皆さんのために、必ず販売を再開したいと思っていた」と話す。
現在は、冷蔵のパック商品として提供している。「島豆腐は沖縄の食文化になくてはならないもの。チャンプルーだけでなく、おもてなし料理にも使えるなど、活用法は無限にある。豆腐の魅力を私なりに発信していきたい」と力を込める。「いろいろな課題は必ず解決できると思っています」。困難を乗り越えてきたからこその言葉は、より強く、輝きを放つ。
製造スタッフ、皆で力を合わせ創業54年
那覇市首里に本社工場を置き、伝統的な製法による豆腐や豆腐を加工した食品などを製造している(株)照屋食品。照屋寛輝(かんき)さんが1969年に創業。以来、「豆腐は照屋食品さんのものじゃないとだめと言われることがよくある」と話すほど、多くの人に愛されている。そんな首里豆腐の味を守り、届けるため、現在、45人の社員が業務に取り組んでいる。3代目代表の照屋ゆきのさんは、「社員がこんな会社で働きたいと思ってくれるような職場環境づくりに努め、目配り・気配り・心配りを大切に部署を問わず、コミュニケーションを取るよう心掛けています」と話す。
創業者の義父は破天荒
60代で友人とモンゴル旅行に行ったときの義父、寛輝さん((株)照屋食品提供)
7年前に亡くなった、創業者で義父の照屋寛輝さんのことを「旅行好きで、サービス精神が旺盛で、破天荒な人だった」と笑うゆきのさん。
ある日、ハブに手をかまれた寛輝さんは、その部分の血を自分で吸い出し、心配する周囲に「ヌーアランサ(なんでもないさ)」と一言。夫の寛幸さんが慌てて病院に連れて行ったが、毒が回り腫れ上がった腕を見て「命拾いをした」と話していたという。地元首里への愛情は深く、首里城公園の龍潭池が整備されたときは、その記念にと100匹のコイを贈呈したこともある。
夫と義父の思いを継ぐ
結婚当初、2人で首里城を訪れた時の写真。ゆきのさんの大切な思い出の1枚((株)照屋食品提供)
2代目代表の夫、照屋寛幸(ひろゆき)さんは那覇市首里で生まれ育った。「いつも笑顔で声が大きく、笑い声が絶えない優しい人で、地元首里への愛情が深い人だった」とゆきのさん。
ゆきのさんは、夫と義父が愛した首里と、首里豆腐を愛してくれる人々のために、首里豆腐の冷蔵パックによる一般販売の再開と、その売り上げの一部を首里城復元に寄付することを決めた。「きっと夫も義父も喜んでくれると思う」とほほ笑む。
プロフィル/てるや・ゆきの
1972年生まれ、那覇市出身。高校を卒業後、生命保険会社の営業で勤務。その後、アロマセラピストとして、ブセナテラスやVIVACE BEAUTYで勤める。33歳で結婚を機に退職。出産を経て、35歳で夫の家業である照屋食品に入社。2011年、法人化で、創業者の義父が会長、夫が代表取締役となり、照屋さんも専務取締役に就任。3年前、夫の急逝に伴い、同社代表取締役に就任。プライベートでは2人の娘の母。
文・赤嶺初美(ライター)
『週刊ほ〜むぷらざ』彩職賢美<1424>
第1862号 2023年4月13日掲載