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新城和博

2019年11月6日更新

ぴかぴかの首里城の記憶|新城和博のコラム

ごく私的な歳時記Vol.66|首里に引っ越して20年。「ボーダーインク」編集者でライターの新城和博さんが、この20年も振り返りながら、季節の出来事や県産本の話題をつづります。

ぴかぴかの首里城の記憶

 耳元でささやかれたような気がして目が覚めた。
 その声は家のそばの防災無線の放送だった。首里で火災があったので、警戒してください、という内容で、ぼくたちはそれを「首里中で……」という風に思った。うちからそんなに近くはないけれど、学区内ではあるしな、という風に思い、二階の窓をあけてみたが、それらしい気配は感じなかった。
 たぶん大丈夫。でも念のために、SNSになにか情報があるかもと思い、ケイタイをみると、こんな夜更けに、メッセージが入っていた。「首里城が燃えている」、画像が添付されていた。そんなことが……。あわててテレビをつけてみた。東京にいる娘からもメッセージが届いていた。
 妻とふたりで車を出して、弁が嶽から龍潭池を目指した。途中、考えられない角度で火の手があがっているのを見てしまい、少しずつ悪夢のような光景に近づいているのだと感じた。

 ぼくは結婚、そして娘の誕生とともに、首里に引っ越してきた。以来ずっと首里に住んでいて、娘はすでに社会人となって内地で暮らしている。彼女は生まれた時から首里城正殿が存在していた世代だ。
 その娘がベビーカーに乗っているときから、首里城にはよく出かけていた。首里の坂をのぼり、龍潭池から首里城を眺めながら、いくつかの門をくぐり、芝生の木陰へ。妻は首里城周辺を散歩するたびに、その頃の思い出を語る。いい思い出なのだ。子連れにやさしい首里城なのだ。
 正殿、御庭エリアに入場するのは、そう多くはなかったけれど、首里城のあちこちを散歩したし、日常の生活の背景に首里城の姿はあった。
 夫婦ふたりで散歩するときは、夕暮れ時からライトアップされた首里城を遠く近く、眺めながら歩き、そのあたりの飲み屋で過ごす。車でうちに帰る道すがら、龍潭池ごしに首里城の姿をなんとはなしに確認する。
 首里文化祭(と、地元住民は今でもそうよぶのだが)のときは、旗頭の道ぢゅねーをみたあとに、首里城での振る舞い泡盛を飲んで、そのまま芸大祭をのぞいたりして。11月3日の首里は楽しいことばかりなのだ。意外と知られていないけれど。

 龍潭池ごしの首里城の姿を、ぼくらのような首里の住民が集まり、静かに見ていた。びっくりするくらい静か。目の前の揺らぐ炎を理解できない、言葉にならないでいるのだ。
 1992年、復帰二十周年の節目に復元されたぴかぴかの首里城を、当時、ぼくは少し距離を持ってつきあっていたと思う。そして二七年たったいま、首里城が沖縄の象徴としてこんなに存在感を持っていたなんて、こんな夜がくるまでわからなかった。
 その五百年にわたる歴史の中で、なんどか焼失したとされる首里城。ぼくたちの歴史的記憶の中では沖縄戦で失われた首里城だった。そして今またしても、失われた首里城の記憶をもった。願わくば新しい世代に、もう一度ぴかぴかの漆塗りの首里城正殿の記憶をもってもらいたい。いまはただどういう風にこの気持ちをあらわしていいのかわからないけれども。

久場川町の旗頭



大中町の旗頭

 

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ライター/編集者
1963年生まれ、那覇市出身。沖縄の出版社「ボーダーインク」で編集者として数多くの出版物に携わるほか、作詞なども手掛ける。自称「シマーコラムニスト」として、沖縄にまつわるあれこれを書きつづり、著書に「うちあたいの日々」「<太陽雨>の降る街で」「ンバンパッ!おきなわ白書」「道ゆらり」「うっちん党宣言」「僕の沖縄<復帰後>史」などがある。

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