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新城和博

2019年5月1日更新

アカバタキーはリバービュー|新城和博のコラム

ごく私的な歳時記Vol.60|首里に引っ越して20年。「ボーダーインク」編集者でライターの新城和博さんが、この20年も振り返りながら、季節の出来事や県産本の話題をつづります。



アカバタキーはリバービュー

 ときおり知らない街を歩きたくなる。
 と書くと、なんだか古い歌謡曲の一節のようだが、わざわざ出かけるという心持ちをもたなくても、たとえば誘われていく初めてのレストランへ向かう道すがらでも、〈いつもなら絶対通らない道をわざと選んで歩いていけば、それはもう知らない街へ旅するようなものなのです〉(『ぼくの〈那覇まち〉放浪記』作者の言葉より)
 直接の知り合いではない方々との飲み会の場所が小禄のレストランだった。首里から小禄というと同じ那覇市ではあるが、実は意外に遠い。ぼくんちは首里のはずれ……南風原との境界付近なので、タクシーで行くと東海岸側の与那原の方が料金は安かったりする。
 しかし、那覇市にはゆいレールがある。首里から小禄に行こうと思えば、たった12駅(奥武山駅)だ。そこであえて2駅手前の旭橋駅で降りて、壺川の住宅地をぬけて、橋をわたり漫湖をこえて小禄の古道を寄り道していけば、一時間弱の道ゆらりとなる。

 壺川は意外と広い範囲の住宅地なのだが、戦前・戦後、漫湖というか国場川の河口というか、そのあたりの川辺の結構のエリアを埋め立てている。明治時代の地図と今を比べてみるとびっくりするくらい。かつて真和志間切(琉球王朝時代の行政区分)のころには、アカバタキーとよばれた、赤松が映える小さな丘が、漫湖に突き出ていたという。むかし奥武山が離れ小島だったころ、漫湖は小さな島や岩山が転々とする、風光明媚(めいび)な景勝地だった。奥武山の対岸の壺川も半農半漁の寒村ながら、そうした風情を醸し出していたところにちがいない……などど、妄想しつつ、埋め立ててきちんと整理された住宅地をうろうろしていたら、あるマンションの名前が目についた。
 その名も「リバービュー赤畑」。
 こっ、これは!
 この「赤畑」というのは、もしかしてその「アカバタキー」のことではないだろろうか。東恩納寛惇著『南島風土記』では、「赤畠」と記されている。「アカバタキー」は漢字をあてると、「赤畠・赤畑」となるのだ。失われた地形の失われた地名がこんな形で残っていることに、じんわりと感動してしまった。
 そういえばこのあたりに拝所があったような……と、数年前よく那覇ポタリング(自転車散歩)していたころの記憶をたどると、リバービュー赤畑の向かいの駐車場の一角にあった。集落の土地形態が激変したところでよく見かける、いくつかの御願所を集めてというスタイルだ。ちいさな祠(ほこら)には「寺」とか「官」とか記されている。仏閣神社もあったのかしらん。
 フェンス越しに手をあわせて、かつてのアカバタキーの名残を懐かしんでみた。



 このあと漫湖をこえて夕暮れ迫る小禄へむかった。ここの古道がまた発見の連続なのであったが、それはまた別の知らない街の話となる。





 

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1963年生まれ、那覇市出身。沖縄の出版社「ボーダーインク」で編集者として数多くの出版物に携わるほか、作詞なども手掛ける。自称「シマーコラムニスト」として、沖縄にまつわるあれこれを書きつづり、著書に「うちあたいの日々」「<太陽雨>の降る街で」「ンバンパッ!おきなわ白書」「道ゆらり」「うっちん党宣言」「僕の沖縄<復帰後>史」などがある。

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