壺川ビー・バップ!|新城和博のコラム|fun okinawa~ほーむぷらざ~

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彩職賢美|沖縄の輝く女性にインタビュー

COLUMN

新城和博

2018年10月3日更新

壺川ビー・バップ!|新城和博のコラム

ごく私的な歳時記Vol.43|首里に引っ越して20年。「ボーダーインク」編集者でライターの新城和博さんが、この20年も振り返りながら、季節の出来事や県産本の話題をつづります。




いろいろあった9月。このコラムが読まれる頃にはいくつかのことが決まっていることでしょう、と思いつつ。

さてそんなばたばたしているなか、小学6年生の時の友達の集まりに呼ばれた。クラス会というほどの規模ではない。同級生が居酒屋を始めた、ということで、数年ぶりに同窓会が開かれたのが去年のこと。それ以来、その居酒屋へちょくちょくお誘いがあるのだ。


小学校を卒業して会っていないクラスメイトがほとんどなので、興味津々であった。ぼくは物静かな小学生だったので特にクラスで目立つということもなく、世界征服をたくらむ組織とどのようにして対峙していけばいいか(本の話です)と悩むくらいの児童だった。

そのころ、他の子たちはなにを思っていたのだろう。そしてその後、どんな人生を歩んできたのだろう……。まだ2、3度しか会っていないのだが、彼らのライフヒストリーはなかなか面白いのである。なんとなくお役所関係の人、市場に通う人、コンビニの店長、孫がいる彼女、3・11で津波に飲み込まれそうになったあいつ……、ひとり二時間ずつインタビューしたくなる。



そんな話のなかで僕にとっての再発見は、壺川という地域についてである。ぼくの通った小学校は那覇市の楚辺というところにあり、学校区には壺川も含まれていた。ぼくは樋川という開南バス停近く。平和通りに近いまちの子に対して、壺川地区は国場川に面して、まち工場があったりして、下町的なワイルドな雰囲気であったという。
 
同じ教室にいた頃は、特に何も気にしていなかったけれど、遊びの仕方も行動範囲もまったく違っていたのだ。国場川にはまりどろんこになって遊んでいたとは知らなかった。奥武山のプールに行くために明治橋ではなく、当時設置されていたパイプラインの上を橋代わりにして歩いて通っていたらしいのだが、その橋?のたもとに、ちょっと怖いにーにーたちがいると、通行料を取られたという。関所か! 
 
こんな話がわんさか出てきて、ああこれこそが那覇の記録されることのない記憶なんだなぁと、ひとり静かに感じいった。あの頃、那覇の小中学校は、ほとんど「ビー・バップ・ハイスクール」状態だったのだなぁ。ぼくは本屋の片隅で人類滅亡の危機をどう乗り切るのかを考える程度の、目立たない普通の子どもだったから、そういう世界とは、ほぼ無縁だったのだ。

そんな話の中で「壺川は、〈みなと村〉だから」と、壺川育ちの友達がさらりと言った。確かに琉球王朝時代は壺川は国場川河口で漁業をしていた村だったらしいので、港もあったとは思うけれど、ちょっとひっかかったので詳しく聞いてみると、それは沖縄戦後の一時期、米軍統治下のもと沖縄民政府が設置した「みなと村」を指していたのだ。

このみなと村の歴史は、沖縄、那覇の戦後史の中では大変重要であるが、まだまだいろんな謎を秘めている特殊な行政区である。でもそれは僕ら世代の前の話で、いまはそんな気配はまったくない、と勝手に思っていたのだが、いやいやここで生まれ育った彼らたちには、壺川のワイルドな気配というのは、戦後、沖縄の各地から集まってきた港湾労働者たちが暮らしていた〈みなと村〉の気配、親たち世代の記憶を受け継いでいるという認識だったのだ。
 

確かに僕の通っていた小学校の学区は考えてみると、ほぼ〈みなと村〉の範囲だったのだなぁ。歴史ってすぐ傍にあるんだなと、次回のクラス会が楽しみなのである。

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ライター/編集者
1963年生まれ、那覇市出身。沖縄の出版社「ボーダーインク」で編集者として数多くの出版物に携わるほか、作詞なども手掛ける。自称「シマーコラムニスト」として、沖縄にまつわるあれこれを書きつづり、著書に「うちあたいの日々」「<太陽雨>の降る街で」「ンバンパッ!おきなわ白書」「道ゆらり」「うっちん党宣言」「僕の沖縄<復帰後>史」などがある。

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