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新城和博

2018年6月4日更新

「電柱地名」をたどっていくと|新城和博のコラム

ごく私的な歳時記Vol.40|首里に引っ越して20年。「ボーダーインク」編集者でライターの新城和博さんが、この20年も振り返りながら、季節の出来事や県産本の話題をつづります。

たまに呼ばれて人前で話しをする。苦手である。
60分から90分ばかし喋(しゃべ)ったのち、2時間ばかり落ち込む。またしてもとっちらかった話をしてしまった……。散歩の話をしているのに、話は迷路に迷い込み、自分が話そうとしていたことから遠く離れ、迷子になっている。この繰り返しである。
今回は、那覇の街作りについて市民がいろいろ夢を語るという会があり、そのプレイベントとして、ぼくが常日頃行っている(というほどのことでもないが)まち歩きに関するトークであった。案の定、最初の30分で、まだ全体の構成のなかの「そのいち」くらいしか喋っていないことに気がつき、あせる。喋っているうちに、事前の構成内容は崩壊し、自分でも何を言いたいか分からないまま、予定の時間は迫ってくる。しかしこういうときにこそ欲が出る。せっかく用意したのに、もうひとつくらいネタを話したい。

で、とっておきの「電柱地名」を紹介した。

みなさんは生活の中で使っている住所・地名のほかに、知らず知らずのうちにあなたの周りを取り囲んでいる地名があることを知っていますか。

それは散歩の途中で絶対見かけるもの。電柱です。電柱の役割は、現代生活に欠かせないライフラインである電気を、さまざまな場所にいきわたらせるために必要なもの。他にも電話線だったり、いくつかの線をつなげていますね。近所の散歩程度で歩く道のそばに必ずあるといっていいでしょう。

ぼくは、街歩きするときにはかならず電柱のあるポイントを確認します。よく見ると、電柱にはいろいろな表示がなされているのです。その中で表札のように、どんと書かれているものがあります。単純に考えれば、その電柱がある場所を表しているように思うでしょ。でもことはそう単純じゃないのです。





例えばあなたは那覇で「久美」という地名を聞いたことがありますか(写真1)。

では「浜松」が那覇にあることを知ってますか(写真2)。

さらに「壺松」と続いて(写真3)、那覇の電柱がまるで「おそ松さん」状態になっていたことを!

首里の金城町にある電柱の名前が「繁多川」だったり、首里の鳥堀町にある電柱が「当ノ蔵」だったりもします。

最初、ぼくもなんだかよく分からなかったのですが、その電柱たちをたどっていくうちに予想がついてきました。これは電線のルーツを表しているのだ。たぶん。この電柱の線は繁多川から始まって、首里の金城町まで延びているのですよと。つまり「繁多川」からつながっている線なのだ。

ぼくはこれを「電柱地名」と名付けた。

電柱地名には数字も一緒に書かれているので、ルーツをたどるためには「1」を探していけばいい。これがけっこう難しいのです。そしてどこに行くのか分からないから楽しい。

地名が実在している場合は簡単に予測が付く。街が、住宅地が、どのように広がっていったか、その痕跡に触れている、と電柱をみながら想像していく。ちょっと楽しくなるはず。たぶん。

では「久美」はなんだろう。久茂地川沿いで見つけたのですが、このような地名・住所は那覇にはないですよね。でも電柱に沿って歩いていると簡単に思いつく。久茂地と美栄橋をつないだ電線、ということなのです。たぶん。「久美」、すこしのスナックのママ感とミステリアスな響きがいいですよね。

「壺松」を見つけたのは与儀でした。これは最初ピンとこなかったのだけど、電柱の流れを想像して、ひらめいた。壺川と松川の間を繋いでいる電線なのだ。たぶん。

では壺屋で見つけた「浜松」は、どこからやってきたのか? と「電柱地名」の謎はつきない。無論、沖縄電力に問い合わせてみるという野暮なことはしません。あくまでも、妄想・想像して楽しむのです。自分で考えようとせず、いきなり教科書の問題の答え合わせをしていては、学力が上がらないのと一緒である。たぶん。

まったく謎の電柱地名もあります。これはぼくのまち歩きの師匠から教えてもらった。那覇の某所にある「千鳥」(写真4)。電柱地名「千鳥」を追って、首里の某所を上ったり下りたりして「千鳥 1」にたどり着いたのですが(写真5)、そこに千鳥足の痕跡はありませんでした。謎である。解明したくないほどに。

さらに電柱地名の楽しみに、痕跡を探すというものがあります。そこにかつていち時代を築いて、今はなくなってしまった建物の痕跡がくっきりと刻まれていたりします。

「ダイエー」(写真6)はみなさんご存じのことと思いますが、復帰後に沖縄へ初めて日本本土から進出してきたスーパーです。沖縄では「ダイナハ」という名前で親しまれていましたよね。いまはもうなくなって、ビルはジュンク堂書店などになっています。でも電柱には残っているのです。

「大洋」(写真7)は、戦後いちはやく復興していった那覇の最初の繁華街・神里原にあった映画館「大洋琉映」のこと。「若松国映」(写真8)は、ぼくが高校のころまであった映画館。「若松」は、若狭・松山の略かしら。これのネーミングは電柱地名に通じるというのも面白いですね。「綾門」(写真9)はというと、もっとぐっとさかのぼって、琉球王朝時代、かつて首里城へ続く坂道にあった「中山門」の別名です。

このように時は過ぎ去り、人々の記憶から忘れ去られようとしても、何も言わない電柱は、その痕跡を残していたのです……。

ふと気づくと、トークの予定時間をとっくにオーバーしていた。寄り道にもほどがあるくらいの時間がたっているではないか。電柱の話でこんなに興奮するなんて、われながら情けない限りである。実は「浦添から牧港編」の写真も準備していたのだが、それは次回ということにしよう。人前で話すのは意外と楽しい。


 

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ライター/編集者
1963年生まれ、那覇市出身。沖縄の出版社「ボーダーインク」で編集者として数多くの出版物に携わるほか、作詞なども手掛ける。自称「シマーコラムニスト」として、沖縄にまつわるあれこれを書きつづり、著書に「うちあたいの日々」「<太陽雨>の降る街で」「ンバンパッ!おきなわ白書」「道ゆらり」「うっちん党宣言」「僕の沖縄<復帰後>史」などがある。

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