新城和博
2025年3月21日更新
あの頃。を想い出した二月、三月|新城和博さんのコラム
ごく私的な歳時記Vol.125|首里に引っ越して30年ほど。「ボーダーインク」編集者でライターの新城和博さんが、季節の出来事や街で出会った興味深い話題をつづります。
二月から三月にかけて、いろんな人とあいました。「会い」とも「逢い」とも「遭い」とも、いろいろ当ててみたいいかんじがするお話が出来た。
ジュンク堂書店那覇店では、作家で知人のオーガニックゆうきさんと本屋店主・エッセイストで友人の宇田智子さんのトークイベントで進行役をして、ゆうきさんの「わたくしごとを書かない、が家訓」という名言をいただき、個人的なエッセイを書く身としては「はっ」としたり。
桜坂劇場のサクラザカ・アサイラムのトークセッションに参加して、長年の友人である野田氏と久々に喋って「やっぱり1990年代の沖縄っておもしろかったんじゃないですか」という意識を公(おおやけ)にさらけ出したり。
同じく桜坂劇場で、日本フォーク界のレジェンド、フォーク・クルセダーズ(フォークル)の「帰ってきたヨッパライ」「イムジン河」などの作詞、訳詞を手掛けて、加藤和彦さんとのコンビでサディスティック・ミカ・バンドの「タイムマシンにお願い」など日本ロックのマスターピースを生み出した、作詞家・編集者、そして歌も歌うようになった松山猛さんとチャンチャコカンパニーのライブに、トークの相手として舞台に座った、緊張した。日本のサブカルチャーを牽引していた人なのだが、朝鮮半島の民族分断の悲しみを歌った「イムジン河」をいま沖縄で聞くといろいろ感じいったし、さらにライブの最後にレジェンドのきたやまおさむ(フォークルのメンバー) まで飛び入りして、オリジナルメンバーの「あの素晴らしい愛をもう一度」(作詞きたやまおさむ・作曲加藤和彦)をその場で聞けて感無量になったり。
寒い寒い今年の二月の思い出としてはもう十分だった。
三月に入り、東京に一泊二日の弾丸ツアーっぽく出向き、ある文学賞の授賞式に参加した。受賞者のおひとりにご招待を受けたのだ。かねてからメールやお手紙のやりとりをしていた方だったが、お会いするのは初めてですごく楽しみにしていたのだ。式典の前に落ち合っていろいろお話ししたのだが、彼は1990年代前半に沖縄に住んでいて、その頃の話題で時間がいくらあっても足りないほど盛り上がった。ぼくは20代の終わりから30代にかけて、三線ライブを地下のライブハウスでやったり、インディーズ映画をつくったり、グスクで野外劇をしたり、自分たちの雑誌をつくったりと、とにかく沖縄はおもしろかった(と書くとすでに30年前だからノスタルジックな語りになってしまうけれど仕方ない)。彼の話に出てくる人脈が、ほぼ、ぼくがあの頃からよく遊んでいて仕事していた、そしていまでもつきあいのある人たちばかりで、ぜったいあのとき、同じ場所にいたよね、出会っているよね、と確信しあった。
あの頃。その響きは人によって時代は違うだろうけれど、ぼくにとってはやはり1990年代の始まりの頃なんだよなぁ。いろんな人がまわりにいて、友だちの知り合いの知人みたいな人もたくさんいて、でもどこからやってきたのか、そういうことはほとんど気にせず、同じ時代を、ある種の連帯意識をもって、わちゃわちゃしていた。どんな世代にもそういう季節があると思うのだ。あるかな。その記憶があるから、いまでも時折、あの頃の夢の続きのように生活している気がする。いろいろ続けていれば、三十年越しの出逢いもあったりするのだ。
三月も寒い日が続いたがまた新しい出会いがあるといいなぁと思ったりする。
ジュンク堂書店那覇店では、作家で知人のオーガニックゆうきさんと本屋店主・エッセイストで友人の宇田智子さんのトークイベントで進行役をして、ゆうきさんの「わたくしごとを書かない、が家訓」という名言をいただき、個人的なエッセイを書く身としては「はっ」としたり。


寒い寒い今年の二月の思い出としてはもう十分だった。
三月に入り、東京に一泊二日の弾丸ツアーっぽく出向き、ある文学賞の授賞式に参加した。受賞者のおひとりにご招待を受けたのだ。かねてからメールやお手紙のやりとりをしていた方だったが、お会いするのは初めてですごく楽しみにしていたのだ。式典の前に落ち合っていろいろお話ししたのだが、彼は1990年代前半に沖縄に住んでいて、その頃の話題で時間がいくらあっても足りないほど盛り上がった。ぼくは20代の終わりから30代にかけて、三線ライブを地下のライブハウスでやったり、インディーズ映画をつくったり、グスクで野外劇をしたり、自分たちの雑誌をつくったりと、とにかく沖縄はおもしろかった(と書くとすでに30年前だからノスタルジックな語りになってしまうけれど仕方ない)。彼の話に出てくる人脈が、ほぼ、ぼくがあの頃からよく遊んでいて仕事していた、そしていまでもつきあいのある人たちばかりで、ぜったいあのとき、同じ場所にいたよね、出会っているよね、と確信しあった。
あの頃。その響きは人によって時代は違うだろうけれど、ぼくにとってはやはり1990年代の始まりの頃なんだよなぁ。いろんな人がまわりにいて、友だちの知り合いの知人みたいな人もたくさんいて、でもどこからやってきたのか、そういうことはほとんど気にせず、同じ時代を、ある種の連帯意識をもって、わちゃわちゃしていた。どんな世代にもそういう季節があると思うのだ。あるかな。その記憶があるから、いまでも時折、あの頃の夢の続きのように生活している気がする。いろいろ続けていれば、三十年越しの出逢いもあったりするのだ。

三月も寒い日が続いたがまた新しい出会いがあるといいなぁと思ったりする。
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ライター/編集者
1963年生まれ、那覇市出身。沖縄の出版社「ボーダーインク」で編集者として数多くの出版物に携わるほか、作詞なども手掛ける。自称「シマーコラムニスト」として、沖縄にまつわるあれこれを書きつづり、著書に「うちあたいの日々」「<太陽雨>の降る街で」「ンバンパッ!おきなわ白書」「道ゆらり」「うっちん党宣言」「僕の沖縄<復帰後>史」などがある。