50年後のシロツメクサ|新城和博さんのコラム|fun okinawa~ほーむぷらざ~

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新城和博

2022年5月20日更新

50年後のシロツメクサ|新城和博さんのコラム

ごく私的な歳時記Vol.95|首里に引っ越して20年。「ボーダーインク」編集者でライターの新城和博さんが、この20年も振り返りながら、季節の出来事や県産本の話題をつづります。

大雨が降るといいなと思っていた。明け方から降っていた雨は激しくて、午前中、やみそうもないと思っていたが、お昼すぎには雲の切れ間から日差しも見えるような案配となった。風は強い。流れる雲の様子をみながら、少しくらいの雨ならどうにかなるだろうと判断して、ぼくは家を出た。髪の毛がみだれるのが気になり帽子を深めにかぶる。以前ならこの状態でマスクまでして、ひとけの無い住宅地をうろうろしていたら不審者っぽく見えただろうが、いまは大丈夫。

明けない夜もないし、やまない雨もない。ほんとうにそうだろうかと思いつつ、首里から那覇へ下りる。目の前で開南行きのバスを逃してしまったので、ゆいレールに乗り、安里駅で降りることにした。車両内には、小さな子どもを連れた家族連れや、ケイタイをじっとみつめる女性、おじいちゃんと孫とその母親の姿。いつもと変わらない。

安里駅から栄町市場側の階段を下りて国道330号、通称「ひめゆり通り」を南西に向かって、ひとり歩く。昨日は土曜日だというのに混んでいた車道だが、今日はいつもの日曜日と変わらないようだ。すれ違う人もほとんどなく、最近うわさの牛丼屋、今日は休みの韓国料理の店、一度も入ったことのないこじゃれたサンドイッチ屋などの前を、通り過ぎる。

今日は姉の誕生日なので、公園横のスーパーに入り、国産ワインを買う。通りとは対照的に、店内はとても混んでいた。



50年前のその日、大雨の中、大勢の「沖縄県民」が怒りの声を上げていたという、その公園はひっそりとしていた。常設テントとガジマルの陰で将棋を指しているおじさんたちの近くで、炊き出しの準備を始めるボランティアの人、なにかをしきりにつついているハトたち。つまりは、いつも通りなのである。



特に用事は無かったのだが、なんとなく気になって立ち寄った与儀公園は、考えてみたら久しぶりに来たかもしれない。いつもは那覇市立中央図書館で折り返すからだ。コロナ禍のなかで、与儀公園の広場で行われていた植木市や桜祭りも開かれていないようだ。広場はいちめんシロツメクサでいっぱいになっていた。まるで緑のじゅうたんだ。足を踏み入れると、前日からの雨で、かなりぬかるんでいる。靴そこからじんわりと泥水が染みてきそう。このままだとそこは大きな沼地になってしまうのではないか。誰もいないシロツメクサの広場を斜めに横断しながら、ぼくは50年前の雨の日、家のなかで聞いていた雨音を想像していた。もしあのとき、激しく降る雨なんか気にしないで、この公園まで走っていたら、怒りに満ちた大人たちの姿を見ることができたに違いない。開南から与儀公園まで。小学4年生のぼくには少し遠い場所だった。なにしろ校区が違うからね。シロツメクサはそのころ沖縄にはほとんどなかった。復帰後からじわじわ沖縄でも見掛けるようになった外来種である。



与儀十字路はこの数年でかなり変わった。開南大通りも数年前の面影すらない。50年前は道路は狭くて、どこもかしこももっとごみごみしていたけど、通りはいつも多くの人が行き交っていた。みんなどこへいったのだろう。

那覇でもめっきり少なくなった横断歩道橋の上から、もう一度与儀公園を眺めてみたら、那覇市民会館が居眠りするようにひっそりとたたずんでいた。ワインを届けたら、そのまま開南バス停から那覇高校前をぬけて立法院まで、足を延ばそう。琉球政府前から国際通りにでれば、それはそのままいにしえのデモコースなのである。

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ライター/編集者
1963年生まれ、那覇市出身。沖縄の出版社「ボーダーインク」で編集者として数多くの出版物に携わるほか、作詞なども手掛ける。自称「シマーコラムニスト」として、沖縄にまつわるあれこれを書きつづり、著書に「うちあたいの日々」「<太陽雨>の降る街で」「ンバンパッ!おきなわ白書」「道ゆらり」「うっちん党宣言」「僕の沖縄<復帰後>史」などがある。

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