新城和博
2021年10月12日更新
50年前の那覇大綱挽|新城和博のコラム
ごく私的な歳時記Vol.88|首里に引っ越して20年。「ボーダーインク」編集者でライターの新城和博さんが、この20年も振り返りながら、季節の出来事や県産本の話題をつづります。

今年もコロナ禍のなかで中止になった那覇大綱挽。この2年でいろんな伝統行事、恒例のイベントが行われず、すこしだけ記憶が薄れそうな感じ。那覇大綱挽は、毎年必ず見に行っていたわけではないが、それでも那覇市民としてはどこかしら心躍る行事である。いや、国際通りの旗頭行列はやっぱり大好きである。沿道に腰掛けてビール片手に、東西、各地域の旗頭の飾り、旗を眺めつつ、ドラ、鉦(かね)の音、サー、サー、サーのかけ声に爆竹の爆発音に身を任せる。誰でも参加できる都市の祝祭空間があるということは、やはりすばらしいことなのだろう。ただの観光イベントと思っている人も多いだろうが、まぁそれを含めても、戦前と戦後をつなぐ那覇最大の祭りである。その歴史は琉球国時代にさかのぼる。琉球国王慶事や薩摩在藩奉行歓待などの意味合いを持つ町方(都市)の綱挽として、沖縄の他の地域(農村)の綱引きとは違う成り立ちである。
現在の那覇大綱挽は、戦後36年を経て、「日本復帰」を控えた1971年に復活した。ぼくはそのとき、那覇市立城岳小学校3年生で、家族で見に行っているのだ。その様子を当時のぼくの作文から見てみよう。当時、国語の授業で、一年間のつづり方の仕上げとしてまとめた個人文集「星」に、戦後初の那覇大綱挽のことが書かれていたのだ。原文は当然、書き間違いが多数あったので、わかりにくいところは少しだけ漢字に直したりしたが、できるだけそのままにした。あと、とても字がヘタでした。



なはの大つなひき 三ノ九 新城和博
きょうは、なはのそうりつ十二周年きねんで大つなひきやります。[※実はこのとき五十周年です]
三十六年ぶりだそうです。
この、大つなひきをひとめ見ようと、外人の人も、いなかの人もはるばるなはに見にきました。
ドラがねが鳴ると、旗頭が、動きました。たいこも小だいこも「ドンドン」と鳴っていました。旗頭が激しく動くと小だいこも激しく鳴りひびきました。「ドンドンチーンチーンドンドンドン」と鳴っていました。子どもは、ホラ貝をもっていました。おとなの服そうは、黒い洋服でした。子どもの服そうは、光ったきれいな洋服でした。
それが終わると、西も東も三人の人がむかいあって、いちおう帰ってつなをひきます。市長さんのあいずでつなをひきます。
市長さんはつなにのってかけ声をかけていました。
あんまり、ひっぱるのがはげしくて市長さんはころげおちました。
西も東もいっしょうけんめいひっぱりました。旗頭もはげしくうごきました。
両軍あせびっしょりでした。こうたいしたりしてました
一時間つづいて、六時二十分におわった。はじめは「西のかち」といいましたが、東もがんばったので引き分けになりました。
このつなは、重さは二百五十トンです。二百五十トンというものは大きなトラックの三十何台分です。直径は、一メートル二十センチです。長さは、二百メートルです。かにちの高さは、大人の二倍です。
三十六年ぶりだそうです。この大つなひきをひと目みようと、いなかから船ではるばるとなはに見にくる人もいました。

あれから50年たった。今年は那覇市制100周年だった。確かに時は流れた。しかしぼくは今も那覇に住んでいて、あまり変わらないことを書いている。字の下手さもあのころのままなのである(いやもっとキタナクなっている)。
しかし気になるのは、当時の那覇市長平良良松さん、ほんとに、綱から転げ落ちたのでしょうか。
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ライター/編集者
1963年生まれ、那覇市出身。沖縄の出版社「ボーダーインク」で編集者として数多くの出版物に携わるほか、作詞なども手掛ける。自称「シマーコラムニスト」として、沖縄にまつわるあれこれを書きつづり、著書に「うちあたいの日々」「<太陽雨>の降る街で」「ンバンパッ!おきなわ白書」「道ゆらり」「うっちん党宣言」「僕の沖縄<復帰後>史」などがある。