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2020年1月23日更新

宜野湾が生んだ王「察度(さっと)」|地元の宝ありんくりん[10]

執筆:竹内章祝
宜野湾市の大謝名(旧謝名村)に、なんと天女を母にもつと言われる中山王が誕生しました。その名も「察度」。今回は、彼の伝説についてご紹介します。

察度のゆかりの場所


天女を母に持つ!?

羽衣伝説に関連

今からおよそ700年前、謝名村には「奥間」という地域の有力者が暮らしていました。ある日、彼は野良仕事を終え、地元「森川」という泉へ汗を流しにやってきました(現森川公園)。

そこには既に女性の先客がおりました。ふと見上げると、天女の羽衣がかけられています。なんと彼女は舞い降りてきた天女で、この泉で沐浴をしていたのでした。

魔が差したのか、奥間はその羽衣を隠し、様子をうかがいます。しばらくして沐浴を終えた天女は自分の羽衣が無いことに気付き動転します。そこへ奥間が現れ、天へ上れない天女にひとまず家に来るよう促します。その後月日が流れ、やがて二人は結ばれて一女一男をもうけ、幸せに暮らしていたとされます。

ところがある日、長女が弟へ歌った子守唄に天女はがくぜんとします。その歌詞は「羽衣が蔵の穀物束の下に隠されている」というものでした。天女がすぐさま蔵に向かうと、それはまぎれもなく以前泉で紛失した羽衣でした。羽衣が見つかった以上、彼女は定めに従い天へ帰らなければなりません。親子は涙ながらに別れることになったのでした。


天女が沐浴していた森川。今も清水が湧き続けている
 
沖縄自動車道の表示板。中山王察度の伝説にちなみ、天女が描かれている。このほか、天女の絵や「はごろも」の名称を使用する店舗が宜野湾市内で数多く見受けられる

察度の居住地跡の黄金宮(くがになー)。御嶽として大切に守られている

黄金宮への入口案内



黄金のかまど

この天女の長男こそ後に中山最大の権力者となり、また史上初の公式的な中国(明国)との外交を成功させた察度だとされています。宜野湾市内の至る所に天女の絵が描かれていたり、イベント名や店舗名称などに「はごろも」の言葉を使用する理由はまさにこの「察度誕生伝説」によるものなのです。

青年期の察度は裕福ではなく、身なりも整えていませんでした。そんなある日、勝連按司の娘が婿を探しているとのうわさを聞きつけ、察度は一路勝連に向かいます。到着した勝連城では、その外見から按司や家来たちに笑われ、ばかにされましたが、唯一娘はその人徳を見抜き、嫁入りを即座に決めたのでした。嫁いだ察度の家は勝連城とは比べものにならないほどのボロ屋で垣根も壊れ、雨漏りまでしていたといいます。

ところが娘が汚れたかまどをよく見ると、それは黄金で作られていました。察度は驚く彼女を畑に連れて行き、「それならここに石コロのように転がっているよ」と黄金の畑を見せたのでした。


大交易時代の礎築く

黄金の価値を知った察度は、牧港にやってくる日本商船を相手に黄金を大量の鉄と交換し、この鉄で農具を作って農民に分け与え、農民たちの生活を飛躍的に向上させることに成功しました。この功績が認められて彼は浦添按司になり、やがては中山王として中山一の権力者に上りつめるのでした。また察度は中国のみならず、アジア諸国との交易も積極的に推進し、後の琉球王朝大交易時代の礎を築きました。1395年10月5日に75歳(中山王在位期間46年)で、偉大なる王「察度」はこの世を去りました。
 

参考文献:新琉球王統史 察度王、南山と北山 与並岳夫著新星出版 2005年/琉球歴史の謎とロマンその二人物ものがたり 亀島靖著 沖縄教販 2000年

執筆者

たけうち・あきのり
末期の沖縄病に感染した東京下町出身の人情派! 韓国や戦中のユーゴスラビアなど20年近くを海外で過ごし、沖縄に移住。沖縄地域通訳ガイド(韓国語)、通訳案内士養成研修講師など。
 

毎週木曜日発行・週刊ほ〜むぷらざ
「第1695号 2020年1月23日紙面から掲載」

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