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2019年9月26日更新

中山の支配者 舜天の父は|地元の宝ありんくりん[6]

執筆:竹内章祝
琉球王朝という統一国家が誕生する前、この小さな沖縄の島には三つの国が存在していました。三山時代の中心であった「中山」から、支配者のひとり「舜天」の伝承をご紹介します。

流れ着いた大和の武将!?

伝説が点在

琉球王朝以前に沖縄に存在していた三つの国とは、現在の本島北部に当たる北山、中部地域の中山、南部地域の南山(山とは国の意)を指し、俗に三山時代と呼ばれています。当然のことながら、それぞれの国には支配者「国王」も存在していました。その中で、武力・財力共に大きな勢力を誇っていたとされるのが「中山」で、歴史書にも中山のことが多く記載されています。逆に北山や南山の記述は極めて少なく、解明されていない謎も多数秘めています。

今日はその三山時代の中心であった「中山」から、絶大な権勢を誇ったとされる支配者のひとり「舜天」について、琉球国の歴史書「中山世鑑」を引用し、ご紹介します。


中山初代の支配者

舜天は1187年から50年以上にわたり中山地域を治めた中山王統初代の支配者でした(大和の歴史では、源頼朝が征夷大将軍となった鎌倉時代に当たります)。当時中山の中心地は浦添で、浦添グスクがその居城でした。また舜天はいわゆる「混血」で、父親が大和の源氏、母親が沖縄南部の豪族(按司、あじ)の妹であったと言われています。


運天港の由来にも

舜天の父親は、源為朝だと中山世鑑は伝えています。

源為朝とは平安時代末期の大和の武将で、あの源頼朝や義経の叔父にあたります。剛勇無双で暴れん坊、2メートルを超す巨体の為朝は保元の乱の戦犯として伊豆大島に島流しにされます。ところが彼は流刑先でもあっという間に島を制圧し、さらに新天地を求めて海を南下します。しかしその航海の途中、突然の激しい嵐に見舞われ、彼は「わが運命は天に任せる!」とし、ようやく流れ着いた所が沖縄の今帰仁でした。その港は後に「運天港」と呼ばれるようになります。

沖縄にたどり着いた為朝は一路南部を目指します。行った先は糸満市大里(諸説あり)。そこで地域の豪族である大里按司の妹と恋仲になり、やがて男児を授かるのでした。その子こそ、後に中山の支配者となる舜天です。彼らはその後中部に拠点を移しますが、もともと大和出身の為朝は家族を連れて故郷へ帰ろうとします。しかしどうでしょう。船を出すたびに嵐に遭い、どうしても先に進むことができません。船頭の話では男女が同じ船に乗ったため、竜神の怒りに触れたというのです。 そこで為朝は致し方なく妻と子を沖縄に残し、再会を誓いながら単身、大海原へ飛び出して行くのでした。別れ際、妻は「この港であなたの帰りを待ちます」と惜別の言葉を残しますが、それが牧港の由来であるとされます(待ち港→まきみなと)。残された妻子は牧港にある洞窟で暮らし、そこには幼き舜天が残した爪の跡も石灰岩に刻まれていると伝えられています。

後に中山の偉大な権力者となる舜天の父は、源氏の流れをくむ源為朝であった。これら中山世鑑の内容の真偽は別として、知っておきたいロマンあふれる伝承の一つです。
 
為朝上陸の碑。運天港を見下ろす高台に建立されている(今帰仁村運天)
 
為朝岩。浦添城の東端に位置する断崖上の巨岩で、頂上は海抜148メートルと浦添市内で最も高い場所。為朝がこの岩から放った矢は、遠く牧港まで届いたとされる(浦添市前田)
 
和解名森(わだきなむい)。為朝と大里按司の妹が愛を語り合ったとされる場所(糸満市大里)


テラブのガマ。為朝の帰りを待って、その妻と幼き舜天が暮らしたと言われる洞窟(浦添市牧港)


参考文献:浦添市史第1巻通史編(1989年)、新琉球王統史(1)舜天・英祖(2005年新星出版)


執筆者

たけうち・あきのり
末期の沖縄病に感染した東京下町出身の人情派! 韓国や戦中のユーゴスラビアなど20年近くを海外で過ごし、沖縄に移住。沖縄地域通訳ガイド(韓国語)、通訳案内士養成研修講師など。
 

毎週木曜日発行・週刊ほ〜むぷらざ
「第1678号 2019年9月26日紙面から掲載」

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