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2019年5月23日更新

琉球王と父のドラマ―那覇市「一日橋」|地元の宝ありんくりん[2]

執筆:竹内章祝
那覇市の「一日橋」には琉球国王「尚真」にまつわる父と子のドラマがあると言われます。500年前に思いをはせてみませんか。


国場川の流れ。昔はこの辺りに橋がかかっていたようです


現在の一日橋


戦後の一日橋(那覇市歴史博物館提供)
 
「守知」とその父「守忠」の陵墓を示す石碑


「尚真王」と「守知」

「一日橋」。目にしたり、耳にしたことがある地名かと思います。しかし「その場所を特定してください」と言われると、どうでしょうか? 実は「一日橋」という地名は正式にはありません。では、橋の存在はご存じですか? 一日橋は上間交差点のすぐ傍らにひっそりと架かっています。

実はそんな一日橋には、琉球の歴史にまつわる説話が残っているんです。

時は今から550年ほど前の琉球王朝時代。王家である尚家に王子が誕生しました。後に若干14歳で琉球国王となり、王朝の歴史の中で最長の50年という在位期間を誇る、王国の基盤を固めた名君「尚真(しょうしん)王」です。尚真王が幼きころ、彼の父である王は占い師に養父を誰にするか占わせました。「吉日を選んだのち城を出て、南の方角へ歩みなさい。その路上で最初に出会う人こそ養父にふさわしく、尚真の前途は輝かしいものになるだろう」

そこで日を選び、尚真をおぶった使者が南の方角へ歩みを進めると、やがて一人の男性に出会います。その名も「花城親方守知(はなぐすくうぇーかたしゅち)」(以降守知)。彼は、当時の首里金城村に借家住まいをしながら王府に勤めていた下級身分の人でした。それまで自分が王子様の養父になるとは想像もしなかったでしょう。彼は王命に従い、養父として懸命に務めます。

守知は尚真が王に即位後も変わらず仕え、内外から懸命に支えたとされます。その労は、尚真王の多くの功績を見ても一目瞭然です。やがて守知も年老い、ある日尚真王に遺言を伝えます。「私の亡きがらは父の眠る故郷の具志頭に葬ってほしい」。1511年、守知は静かに息を引き取ります。彼の死後、尚真王はひどい悲しみで涙にくれたと言われています。そしてその遺言通り、養父の亡きがらを具志頭に運ぶよう使者に命じます。





嵐で橋が倒壊

ところが国場川に架かった南部への要路である識名橋が嵐で倒壊し、移送が厳しい状況に陥りました。そこで尚真王は早急な橋の修復を命じ、なんと一夜二昼の突貫工事で見事倒壊した橋を復旧させ、その約束を果たしたのでした。この出来事以来、人々は、わずか一日で橋を架け替えたこの奇跡の橋を「一日橋」と呼ぶようになったと言います。(※橋の名称には、板敷橋(いちゃじちばし)からの音の変化「イチャジチバシ→イチニチバシ」との説もある)。当時は、現在より50メートルほど下流側に橋が架けられていたそうです。また、守知の陵墓は八重瀬町字具志頭に現存しています。

余談ですが、守知の父親「守忠(しゅちゅう)」は、琉球王国が成立する前の三国時代(三山時代)の南山王「他魯毎(たるみ)」の弟と伝えられ、親族の男性の名前の頭には漢字「守」が使用されています。周りに守のつく名前の男性がいたら、もしかすると南山王の血を引く守知の後孫にあたるかもしれませんね。



参考文献:沖縄門中大事典 2001年 那覇出版社/沖縄県姓氏家系大辞典 平成4年 角川書店/士族門中家譜 2005年 球陽出版/新琉球王統史(5)尚円王・尚真王 2005年 新星出版/具志頭村史第二巻通史編 平成3年 暁印刷/角川日本地名大辞典47沖縄県 昭和61年 角川書店

 
執筆者

たけうち・あきのり
末期の沖縄病に感染した東京下町出身の人情派! 韓国や戦中のユーゴスラビアなど20年近くを海外で過ごし、沖縄に移住。沖縄地域通訳ガイド(韓国語)、通訳案内士養成研修講師など。
 

毎週木曜日発行・週刊ほーむぷらざ
「第1660号 2019年5月23日紙面から掲載」

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