彩職賢美
2015年7月2日更新
[彩職賢美]県立第二高女・白梅同窓会 会長 中山きくさん|平和な沖縄願い戦禍の体験継ぐ
1945年沖縄戦。県立第二高等女学校4年生だった中山きくさん(86)は女子学徒隊で補助看護婦として戦場へ動員された。死と隣り合いながらも生還。戦後は教師として「戦争の悲惨さと平和、命の尊さ」を訴え続けた。2006年、県立第二高女・白梅同窓会会長に。「若者に伝えなくては」と、沖縄戦の記憶を風化させず、次世代に継承するため、いまもなお第一線で語り続ける。
語り継ぐため生かされた
白梅学徒として沖縄戦体験を伝える
県立第二高女・白梅同窓会 会長
中山 きくさん
戦前、県立第二高等女学校は那覇市松山にあった。同校の女子学徒隊は校章のデザインの白梅から、戦後「白梅学徒」と呼ばれた。
1945年、3月、中山さんは補助看護婦として戦場に動員、現・八重瀬町冨盛にある山部隊の第一野戦病院壕に配属された。戦局が悪化すると壕の中は凄惨を極め、横になって眠ることもできないほど。「『お国のため』と思えば辛くなかった。友軍が助けに来てくれる、勝ち戦と信じていた」と振り返る。
同年6月4日、中山さんら白梅学徒に解散命令が下り、戦場をさまよった。鉄の暴風は容赦なく襲い掛かり、死と隣り合わせに。飢え、米軍に追い詰められた極限状態の中で自決を考えたが友に止められ、思いとどまった。7月上旬投降、生還した。
戦後、教師として小学校に勤務。「戦争の悲惨さと命、平和の尊さ」を訴え続けてきた。しかし、自らの戦争体験は語れなかった。「亡くなった友人を思い出すと胸がいっぱいで何も話せなかった」。生きていることへの負い目を感じ続けた。
中山さんが戦争体験を語り始めたのは戦後50年がたってから。夫の転勤で広島県、長崎県で生活したことがきっかけだ。被爆者の証言を聞いたり、資料館で原爆の勉強もした。そこから「私も後世に伝えなければ」と思うようになった。
帰沖後、白梅学徒の仲間に呼びかけ、学校生活や戦争体験、亡くなった友人のこと、それぞれが体験した沖縄戦をまとめ、95年に「平和への道しるべ・白梅学徒看護隊の記録」を出版。戦争体験の証言活動も始めた。
2005年には、かつてあった師範学校女子部・女学校の戦争体験も継承していくため、各校の元女子学徒有志による「青春を語る会」を発足させた。
沖縄尚学高等学校地域研究部の生徒たちと触れ合う中山さん=写真左。6月23日に糸満市真栄里にある白梅之塔で行われた「第69回白梅之塔慰霊祭」にて(編集部撮影)。
中山さんの日常は沖縄戦と向き合う日々。高齢になり、足も悪くしたがやめようと思ったことは一度も無い。戦争体験者の減少や風化を感じ、「今のうちに語り継がなければ」という使命感が中山さんを動かす。
また、近隣諸国との関係悪化など、社会情勢にも危機感を募らせる。「若い人に分かってほしい」と教科書検定問題や名護市辺野古への新基地建設に反対する県民大会の壇上にも上がった。「沖縄戦を知っている私たちだからこそ強く訴える。平和志向で沖縄が活性化する道を考えたい。新しい基地はいらない」と語気を強めた。
活動を続ける中山さんの思いに共感する若者の中に沖縄尚学高等学校地域研究部の生徒たちがいた。生徒たちは戦争体験を聞き、学徒の足跡をたどった。学んだ事柄は先輩から後輩へと語り継ぐのが恒例となっている。「本当に心強い」。優しくほほ笑んだ。
中山さんには宝物がある。孫の結婚式でもらった手紙だ。「おばあちゃんが生きていなければ母さんも僕も生まれていない。おばあちゃん、命をありがとう。おばあちゃんからもらった命、大切にします」。
中山さんは実感した。「語り継ぐため生かされた」ことを。
目標は「100歳まで語り続ける」こと。笑顔の中に強い決意がにじんでいた。
中山さんのハッピーの種
Q.女学校時代の思い出は?
私の学校の制服はひだの付いたジャンパースカートにブレザーを組み合わせたもの。それに憧れていました。なのに私が入学したときにヘチマ襟の上着とタイトスカートの制服に。がっかりした記憶があります。
楽しかったのは音楽。オルガンを一生懸命勉強して、人気のバンド部に入れたんです。校内外の各種行事ではトロンボーン奏者として演奏しました。
Q.将来の夢はありましたか?
私は薬剤師になりたかった。父が重度のぜんそくを患っていて、助けてあげたかった。その父も沖縄戦の翌年、亡くなりました。
教師になるとは夢にも思っていませんでした。沖縄戦のショックから戦後閉じこもりがちだった私を助けてくれたのは子どもたち。「この子たちを守りたい。悲しんでばかりはいられない」と力をもらいました。今思うと、私の歩んできた道はいい道だったのかもしれません。
学校跡地に建てられたモニュメント「白梅の乙女たち」
沖縄県那覇市松山1-17-1 松山公園内
慰霊塔「白梅之塔」
糸満市真栄里
PROFILE
中山きく(なかやま・きく)1928年、佐敷村(現南城市)生まれ。41年、県立第二高等女学校入学。45年、第24師団(通称・山部隊)の看護教育隊に入隊。補助看護婦として戦場に動員される。戦後、沖縄文教学校師範部を卒業し、教員として25年間勤務。95年から戦争体験の証言活動を開始。2006年より県立第二高女・白梅同窓会会長に就く。15年、沖縄タイムス賞社会活動賞受賞。
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撮影/比嘉秀明・編集/相馬直子
『週刊ほーむぷらざ』彩職賢美<1175>
第1459号 2015年7月2日掲載
この記事のキュレーター
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- 相馬直子
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編集者
横浜市出身、沖縄で好きな場所は那覇市平和通り商店街周辺と名護から東村に向かう途中のやんばる。ブロッコリーのもこもこした森にはいつも癒されています。「週刊ほ〜むぷらざ」元担当。時々、防災の記事なども書かせていただいております。被災した人に寄り添い現状を伝えること、沖縄の防災力UPにつながること、その2点を記事で書いていければいいです!