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新城和博

2020年11月10日更新

さまざまな「あれから1年」 首里文化祭の記憶 |新城和博のコラム

ごく私的な歳時記Vol.77|首里に引っ越して20年。「ボーダーインク」編集者でライターの新城和博さんが、この20年も振り返りながら、季節の出来事や県産本の話題をつづります。

さまざまな「あれから1年」  首里文化祭の記憶


 あれから1年、という言い回しは、どんな時でも使える。日々、いろんなことがおこっているのだから、さまざまな「あれから」がずっと続いている。

それでも、この季節、首里を歩く人たちの頭の中には、あの時の首里城の姿を思い描いているにちがいない。

東京で働く娘が久しぶりに帰省したので、3人家族そろって首里城かいわいを散歩した。彼女にとって首里は生まれ育った街なので、ぼくとはまた違って思いを持って、いまの首里城の姿を見ているようだ。あの夜、首里城からあがる炎の映像を見て何を思っていたのか。

娘は、龍譚のほとりから眺めることのできる首里城の姿を映像として撮っていた。この池は子どもの頃の遊び場のひとつだったというのだ。夏の日、友達と一緒に、風の通る橋影で涼んでいたらしい。そうした記憶の断片とともに、いまはない首里城の姿の一部を撮りたいのだろうか。首里城正殿がないこの風景も、いずれまた消えていく。


▲娘が子どものころ涼んでいたところ

首里の人びとが楽しみにしている「首里文化祭」は今年もなかった。コロナ禍の影響である。大雨、炎上、そして疫病のため、これで3年連続中止なのだ。ただ去年と違って「首里城祭」と銘打ち、御城では、規模縮小した王朝行列やランタンの飾り付けなどは行われていて、首里城下は、思っていた以上の人出があった。



龍譚の向かいにある、元博物館跡にして、元中城御殿跡でも、物づくり体験と首里の民俗芸能、学生たちの演奏が楽しめる催し物が開かれていた。全然知らなかったので、コロナ禍の、消毒、検温、連絡先記入ののちに、密にならないように人数制限されたイベント会場に入った。中学校の楽隊が演奏中で、それなりの観客がいた。奥のテントでは事前申し込みの物作りの体験コーナーのテントが並んでいる。

博物館の建物が移転のため撤去され、更地になってずいぶんたつが、日頃は入ることのできない中城御殿跡なので、興味津々で、舞台やテントが設置された周辺を、それとなく歩き回る。中城王子、つまり琉球国王候補が住んでいたという中城御殿は、復元の計画もあるそうだが、いまはまだ何もない場所だ。そこに、今は首里城火災で出た瓦礫(がれき)を収納した黒い袋がずらっと並んでいる。この瓦礫たちの最終処分はどこになるのだろう。

そもそも中城御殿の建物はいつごろなくなったか。前に何かの記録を読んだはずだが、忘れてしまった。今はその無くした記憶とともに、失われた平成の首里城の姿を、ここから眺めてみた。

翌日、あらためて、旗頭が行われる時間にあわせて、中城御殿跡のイベント会場に再び出向いた。去年はできなかった首里の旗頭行列。今年は少しだけ味わえることができた。さーさー、さーさー、のかけ声、鉦(かね)のキャラリンコンコン、ブォーとホラ貝の音、そして高く鳴り響く指笛。若衆によって、高く持ち上げられた平良町と当蔵町の旗頭の姿は、秋晴れの空に映えていた。やっぱり首里の旗頭はいいな。



小学校のころは子ども会で首里文化祭の行列に参加していた娘は、上京して数年たつが、もう長い間、首里文化祭を見ていない。さまざまな「あれから」の記憶の果てに、いつかまた、再建なった首里城下で、家族そろって一緒に、首里の旗頭行列を味わう「いつか」を想像する。
 

この記事のキュレーター

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新城和博

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ライター/編集者
1963年生まれ、那覇市出身。沖縄の出版社「ボーダーインク」で編集者として数多くの出版物に携わるほか、作詞なども手掛ける。自称「シマーコラムニスト」として、沖縄にまつわるあれこれを書きつづり、著書に「うちあたいの日々」「<太陽雨>の降る街で」「ンバンパッ!おきなわ白書」「道ゆらり」「うっちん党宣言」「僕の沖縄<復帰後>史」などがある。

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