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2019年11月28日更新

戦前の沖縄を駆け抜けたケービン鉄道|地元の宝ありんくりん[8]

執筆:竹内章祝
令和元年10月1日、沖縄都市モノレールゆいレールが、てだこ浦西駅まで延伸し話題となったことにちなみ、今回は沖縄の鉄道の歴史を振り返ってみましょう。

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那覇駅に停車中のケービン鉄道。那覇市歴史博物館提供


県民の足、物資も輸送

今からおよそ100年前、沖縄には那覇駅(現那覇バスターミナルの場所)を起点に鉄道が走っていました。その名も「ケービン鉄道」。ケービンとは日本語の「軽便(けいべん)鉄道」を沖縄風に発音したもので、従来の線路幅より狭い鉄道を指します(1・067㍍未満が該当)。

例えば新幹線の線路幅が1.435メートル、JRの在来線が1.067メートルなのに対し、沖縄のケービン鉄道は0.762メートルと新幹線の半分程度でした。線路幅が狭い分、輸送規模や速度、安定性に劣りますが、何より建設費用が安価というメリットがありました。当時の沖縄は舗装された道路が少なく交通網も整備されていなかったため、ケービン鉄道の登場は大変画期的で、県民の足として活躍しただけでなく、多くの物資も輸送し、戦前の沖縄の産業発展に大きく寄与しました。そんなケービン鉄道には、三つの路線が存在していました。


与那原線

県内初のケービン鉄道で、大正3年に開通し、那覇駅を起点に古波蔵→真玉橋→国場→一日橋→南風原→宮平→大里→与那原の全10駅、総延長9.8キロを約30分で結んでいました。

与那原線の開通は周辺住民の足というだけでなく、中北部からの海上交通の要所であった与那原からの物資を、鉄道で那覇に輸送する大きな役割も果たしました。
 
国道329号に並走する道路にある与那原線の線路跡(那覇市古波蔵)
 
与那原線のレンガ橋脚跡。鉄道を通す橋を支えていた(那覇市国場)

復元された那覇駅の車両回転台(那覇バスターミナル横)


嘉手納線

大正11年に開通。那覇→古波蔵→与儀→安里→内間→城間→牧港→大謝名→真志喜→大山→北谷→桑江→平安山→野国→嘉手納の順に停車し、3路線の中では最も長い23・6㌔を1時間強で結んでいました。

嘉手納線の一部区間は現在米軍基地の中にあるため、その全容は追えませんが、浦添のパイプラインを通り、城間駅からは大動脈の国道58号線に沿って走り、所々当時の遺構や路線跡も確認できます。



糸満線

ケービン鉄道の中では最も遅い大正12年に開通し、那覇→古波蔵→真玉橋→国場→津嘉山→山川→喜屋武→稲嶺→屋宜原→東風平→世名城→高嶺→兼城→糸満の全14駅を約1時間程度で結んでいました。

糸満線といえば極端なU字形状のカーブ路線=下図=が特徴です。俗に「幸之一カーブ」と呼ばれ、当時県議であった大城幸之一氏が故郷の玉城方面へのアクセスを考慮して、働きかけをした影響だと言われています。

県民の生活と産業を30年余り支え続けたケービン鉄道も沖縄戦による破壊は免れられず、主役の座をバスに譲り姿を消していきました。しかし70年以上が経過した今も、当時活躍したケービンの痕跡は各所にひっそりと残っています。意外にもみなさんのすぐそばにあるかもしれません。

糸満線跡の三角橋。この上を鉄道が走っていた(糸満市大里)
 
 糸満線の幸之一カーブ 
▲極端なU字型のカーブが特徴的


参考文献:ケービンの跡を歩く 金城功著 1997年 ひるぎ社/歩いてみよう!おきなわ軽便鉄道マップ おきなわ散策はんじゃ会 2008年 ボーダーインク/図説 沖縄の鉄道 加田芳英 2003年 ボーダーインク


執筆者

たけうち・あきのり
末期の沖縄病に感染した東京下町出身の人情派! 韓国や戦中のユーゴスラビアなど20年近くを海外で過ごし、沖縄に移住。沖縄地域通訳ガイド(韓国語)、通訳案内士養成研修講師など。
 

毎週木曜日発行・週刊ほ〜むぷらざ
「第1687号 2019年11月28日紙面から掲載」

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