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2025年7月31日更新

[沖縄スポット]琉球の礎築いた 浦添グスク|浦添城跡|シマ散策(拡大版)⑥

英祖王や中山王察度の居城として知られ、首里城以前の王城として栄えた浦添グスク。第二尚氏王統7代・尚寧王が生まれ育った地でもあります。「うらおそい歴史ガイド友の会」に英祖王と尚寧王の墓「浦添ようどれ」をはじめ、グスク内の史跡や拝所などを案内してもらいました。

 

よみがえった王の墓

 浦添城跡 
浦添市の東側、標高120~130㍍の琉球石灰岩丘陵にある「浦添グスク」は、東西380㍍、南北60~80㍍の範囲に築かれた。うらおそい歴史ガイド友の会の理事長、玉那覇清美さんは「グスクの周辺には王の墓(浦添ようどれ)や寺院、有力者の屋敷があったと考えられています。領内には牧港という天然の良港があり、中国をはじめ海外と交易をし、後の琉球王国の礎を築きました」と話す。
 


 英 祖王(在位1260年~)や中山王察度(在位1350年~)の居城として知られ、首里城以前の王城として栄えた浦添グスク。玉那覇さんは「発掘調査で14世紀には高麗系瓦ぶきの正殿を中心に、堀や石積みの城壁で囲まれた堂々たる王城だったことが明らかになっています。領内には牧港という天然の良港があり、海外との交易に有利だったことも栄えた理由の一つです」と話す。

近年の調査でグスクの周辺の様子も解明されつつあり、北側には豪族の屋敷跡や英祖王が建立したと伝わる琉球最古の寺院・極楽寺の跡があり、南側には「いゆぐむい」と呼ばれる大きな池があったことが分かっている。「首里城周辺にも貴族の屋敷や寺院、龍潭があり、位置関係などが似ているところがあります。王都・首里の原型が浦添で出来上がっていたのかもしれません」

15世紀初頭、尚巴志に中山が滅ぼされ浦添グスクの王城としての役割は終わったが、16世紀に第二尚氏王統・第3代尚真王(在位1477年~)の長男、尚維衡(浦添朝満)がグスクに居を構え、尚維衡を祖とする浦添家の居館となった。尚維衡の子孫であり第7代国王の尚寧王(在位1589年~)は、浦添グスクで生まれ育ったという。

岩壁に造られた墓室

グスクの北の断崖にある「浦添ようどれ」は、13世紀に英祖王が造ったと伝えられる墓(王陵)。岩壁に横穴を掘り、入り口に石積みの壁を設けた墓室には石厨子(石棺)が安置されている。「何度か改修されたことが分かっていて、初期のようどれには石積みはなく、横穴に木造の構造物(木槨)を設けて、その中に朱塗りの木棺を納めていたと考えられています」。1620年には尚寧王が改修し、王自身もここに葬られた。断崖に沿った長い参道から「暗しん御門(くらしんうじょう)」と呼ばれる通路を通り、高い石垣に設けられたアーチ門「中御門(なーかうじょう)」をくぐるとようどれに至る。「暗しん御門は沖縄戦で破壊される前は岩盤と石積みでできたトンネル状の通路でした。ようどれを訪れた人は暗いトンネルを通って、聖なる場所を象徴するアーチ門をくぐることで霊域に来たことを体感したそうです」


浦添ようどれ。手前が英祖王の墓、奥が尚寧王の墓。岩壁に横穴を掘って、入り口に漆喰を塗った石積みの壁を設けた造り​

英祖王の墓室の石厨子は中国で産出された「輝緑岩」で作られていて、仏像や動物、花などが彫刻されている。「石厨子の意匠は仏教や儒教をモチーフにしていて、日本や中国だけでなく遠くイスラムの影響も見られるそうです」。ようどれは沖縄戦で墓室の石積みや周囲の石垣が跡形もなく破壊されたが、2005年にほぼ戦前の姿に復元された。墓室は公開されていないが、浦添グスク・ようどれ館に英祖王の墓室を再現したコーナーがあり、石厨子の精巧なレプリカを見ることができる。


浦添ようどれの周囲の石垣にある中御門。冬至の日に久高島の方向から太陽が昇り、アーチに朝日が差し込むのが見えるという


暗しん御門はかつて岩盤と石積みでできたトンネルのような通路だった


浦添グスク・ようどれ館にある英祖王の石厨子のレプリカ。仏像や鹿・鶴・蛙・椿・牡丹・龍・鳳凰などが彫刻されている

 

いにしえの信仰残る
大岩と湧泉


 浦 添グスク内には、古くから地域の人々に信仰されてきた拝所が点在している。グスクの南に位置する湧泉「カガンウカー」もその一つ。昔、城内の女性たちが水面を鏡に化粧をしたと伝えられている。王府時代には子(ね)年の若水汲みの聖なる泉として重要な役割を果たしていた。「水質が非常に良く、戦後の一時期まで湧き水を使って宝船という泡盛が造られていました。現在も近隣の仲間集落ではウマチーなどの行事で拝んでいます」

浦添のランドマーク

カガンウカーの近くにある古い里道を東へ向かう。古道の周囲にはガジュマルなどの草木がうっそうと茂り、野趣を感じさせる。ほどなく、グスクの東端に高く突出した石灰岩「ワカリジー」に到着した。標高約148㍍と市内で最も高く、ランドマークになっているそう。英祖王と神女職との間に生まれた「イソノシー(伊祖の子)」が祀られているとされ、今も信仰を集める。


浦添グスクの東端にある大岩「ワカリジー」

グスクの東端から眺めると、冬至の日に久高島の方向から太陽が昇る。「その日は、浦添ようどれの中御門のアーチから朝日が差し込むのが見えます。古い時代、琉球では太陽は久高島の東にある穴から昇って、西にある穴に沈むと考えられていたそうです。浦添グスクはそうしたニライカナイ思想を取り入れて築かれたという説もあります」

ほかに案内してもらった拝所は鍾乳洞が陥没してできたディーグガマ。「戦時中はここに多くの人々が避難しました。戦後の一時期は鍾乳洞の内部に5千柱余の戦没者の遺骨が納められました」。また、グスク内の20坪ほどの敷地にあった「殿(とぅん)」は、ウマチーなどの祭祀を行う場所で、かつては石垣で囲まれていた。ウマチーの際は2本の竹を結び合わせて神が通る門とされるアーチを作り、それに向かって拝んだという。


ワカリジーに続く里道。近年、遊歩道が整備された


湧泉カガンウカー。現在は水がかれているが地域の人に信仰されている










案内してくれたのは

うらおそい歴史ガイド友の会 理事長
玉那覇清美さん
浦添グスク・ようどれ館を拠点に史跡や戦跡のガイドをしている。
電話・098(874)9345

 
取材/池原拓 『週刊ほ〜むぷらざ』シマ散策 
第1981号 2025年7月31日掲載

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