ウマンチュが街角に繰り出した秋|新城和博さんのコラム|fun okinawa~ほーむぷらざ~

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新城和博

2022年11月15日更新

ウマンチュが街角に繰り出した秋|新城和博さんのコラム

ごく私的な歳時記Vol.100|首里に引っ越して20年。「ボーダーインク」編集者でライターの新城和博さんが、この20年も振り返りながら、季節の出来事や県産本の話題をつづります。

10月から11月にかけて、堰(せき)を切ったようにさまざまなイベントが沖縄県内で開かれた。新型コロナ・ウイルスのため、ぐっと我慢していたウマンチュが街角に繰り出した。

1年延期して6年ぶりに開かれた「世界のウチナーンチュ大会」では、例年と比べると沖縄にやってきたウチナー移民の子孫の方々は少なかったというが、国際通りで開かれた前夜祭のパレードには多くの市民が訪れて、沿道から「おかえりなさーい」とあたたかい声援を送っていた。ぼくはテレビでちらりと見ていただけだが、それでもつい目頭が熱くなる。世界のウチナーンチュでもない、親戚に移民した人もいないけど、なんだろうね、これ。

しかしぼくも那覇の市場通りで世界のウチナーンチュをおもてなしするさまざまなイベントがあるらしいと知って、こっそり見に行った。というのも、最近とみに足腰が弱くなった母を姉が「久々に市場に連れて行くかも、市場のウエルカムイベントの出し物に沖縄の民謡とか踊りがあるので、それを見せてみようかな」と言っていたのだ。それに便乗したのである。たまたま帰省していた娘と一緒に市場通りに向かった。



サンライズ那覇商店街の通りは久々に観客の輪ができていた。ちょうど沖縄民謡、舞踊のステージが始まったところだった。輪の端っこで、準備してきた小さなイスにちょこんと座っている母たちと合流できた。この雰囲気は実に久々だ。ウイルス感染の心配が頭をよぎるが懐かしさは止められない。

ずいぶん腰の曲がってしまった母だが、三線太鼓の響きに引き込まれるようにして立ち上がろうとする。少しでもステージが見えるように姉が移動しようとしたら、それを見ていた周囲のおばさんが背中を押し、さらに横にいた見知らぬ兄さんが母の手をとって、ステージの傍(そば)まで連れていった。母はしばらく兄さんの手を離さなかった。あとで姉に聞いたら「隣にいるおばさんが、踊りたがってるよ、はい、踊らしなさい、連れていきなさいって、ずっと言っていた」とのこと。さすがにアッチャメー(足踊り)はもう踊れないが、歌にあわせてティーモーイ(手踊り)、ティーパチパチ(手拍子)。市場が母を踊らせようとしていた。

忘れかけていた通りに人が鈴なりの風景。街に以前の活気が戻ったかのように錯覚しそう。「世界のウチナーンチュ」を歓迎するイベントだが、そこにいる人々の多くはどうみても「沖縄のウチナーンチュ」だった。



そういえば10月は久々に那覇大綱挽も開催されたのだった。コロナ禍が始まる前年2019年に綱が切れるというアクシデントがあって以来の3年ぶり。今回は、国道58号で少し短くした大綱をひく人を、事前にネット予約してもらい人数制限をしたらしいけど、綱をひく直前に綱が切れるというアクシデントで、結局綱ひき自体は行われなかった。しかし国際通りでの旗頭行列は無事行われ、ぼくは全ての旗頭を見てしまった。できるかぎり密集しないように気をつかったが、久しぶりに見る旗頭の演舞には心躍るものがあった。あっ、ここはちむどんどんか。強烈な日差しのもと、それなりの観客と縮まったソーシャルディスタンスのなか、それぞれいつものよりは静かに旗頭、空手、棒術を楽しんでいた。見終わったあと、つい我慢しきれず、市場で昼のみなるものをしてしまった。



そして11月3日である。首里に旗頭が戻ってきた。首里住民が愛する「首里文化祭」のメイン行事である旗頭行列は、2018年に大雨で中止となり、翌年には首里城炎上、そしてコロナ禍と続き、4年間も開催されてこなかった。今年は首里城復興イベント「木挽(こびき)式」の「木遣式」で、久々に旗頭行列があった。かつての首里のメインストリートである綾門通り(いまは首里高校の裏通りという認識だ)で、山原の森で伐採された巨木オキナワウラジロガシを先頭に、首里の各町の旗頭が演舞したらしい……。実は午前中に行われたその行列にぼくら家族は参加できなかった。そんなに早く終わるものだと思ってなかったのだ。見に行ったらすでに旗頭御一行はそれぞれの自治会へ帰るところだった。でもがっかりはしない。



久々に首里の町に人波があった。それ以外のイベントも多数あり、その日は終日首里城周辺をうろうろした。催された企画の中には、ここ数年で注目を集めている「32軍司令壕」の現地案内もあった。これから首里城を語るときには、この壕の存在を無視することはできないだろう。

そしてうれしいことに夕方から首里中学校グラウンドで、首里各町有志による旗頭ガーエーがあったのだ(今回は「旗頭交流会」ということらしい)。これは首里文化祭では恒例となっている祭りの締めともいえる催しで、グラウンドに集まった旗頭たちが一斉に演舞するその姿はなんともいえない多幸感がある。今回そのなかに首里真和志町が戦後初めて復活させた獅子舞が披露されたのがなによりも感動したこと。娘が保育園のころ、縁があって真和志町の子ども旗頭に参加したことから、うちの家族の首里文化祭の歴史が始まったのだが、その時から「いつか獅子舞を復活させたい」ということを自治会の面々が熱く語っていたのだ。



伝統とは夢を忘れずにいる人たちがつなぐものなのだなぁと、ちむわさわさーした。自分はまったく何もしていないのに。

しかしかつてこうしたイベントが毎年普通に続けて行われていたのか………。
 

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ライター/編集者
1963年生まれ、那覇市出身。沖縄の出版社「ボーダーインク」で編集者として数多くの出版物に携わるほか、作詞なども手掛ける。自称「シマーコラムニスト」として、沖縄にまつわるあれこれを書きつづり、著書に「うちあたいの日々」「<太陽雨>の降る街で」「ンバンパッ!おきなわ白書」「道ゆらり」「うっちん党宣言」「僕の沖縄<復帰後>史」などがある。

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