昭和・アーリー平成の国際通りは……|新城和博さんのコラム|fun okinawa~ほーむぷらざ~

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新城和博

2024年4月25日更新

昭和・アーリー平成の国際通りは……|新城和博さんのコラム

ごく私的な歳時記Vol.116|首里に引っ越して20年。「ボーダーインク」編集者でライターの新城和博さんが、これまでの概ね30年を振り返りながら、季節の出来事や県産本の話題をつづります。

人混みが完全に戻った国際通り。休日の所用がおわり、夕暮れ時をぼちぼち帰ろうかと、少し離れたモノレール駅に向かって歩いていた。沖縄そば屋のかどをスクランブル交差点に曲がり、ここは沖縄ジァンジァンだった、ここを曲がるとMAXYだった、そして待ち合わせは三越前だったなどと、はやりの昭和(アーリー平成)ノスタルジーにとっぷりひたっていた。そこで久しぶりの光景に出会った。路上になにやら手作りのグッズを広げて座っている、風貌はいわゆるバックパッカー、もしくはヒッピーの男性。その違いはなに? 地べたにそのまま座っての路上販売である。かつてぼくらは「まちうり」と呼んでいたが、この言葉がどこまで通じるかは、いまとなって分からない。

1980年代後半から1990年代前半にかけて、国際通り三越前は夜になると、その通りにずらりと路上の座り売りたちが、さまざまなモノを売っていたのだ。ほとんどは旅人である。だいたいがアジアンチックなアクセサリーだったが、イラストや自分の言葉を書いて売っている人もいた。バブル期にもそういうカウンターカルチャーの残存が沖縄には流れついたりしていたのだ。ぼくはそんな風景を面白がって流し見している地元の若者でありました。

そういえば友達が路上売りで座っていると聞いて、面白そうだから、国際通りまで出かけて、そのまま一緒に座ったこともあったな。土曜の深夜といえどもそれなれの人通りがあり、記憶のかなたでは、これが街のざわめきかしらと思ったような。

当時すでに雑誌をつくったり、テレビに出ていたりしたから(ぼくが。若気の至りである)、あ、新城さんでしょうと声を掛けられたこともあった。

しばらくぶりに旧三越前でそんな姿を見つけて、ふーんと鼻をならしつつ、家路を急いだ。



別の日、休日の所用のため、モノレール駅を降りて、国際通りを歩いていた。休日那覇に降りるときはできるかぎりバスかモノレールに乗る。そしたらば、どこからか女性の歌声が響いている。かつての国際ショッピングセンターの前を見ると、その広場の木陰で路上ライブをしている女性がいた。座っていた。

ここでは時折、路上ライブをする光景があるので、そんなに珍しくはない。ビートにのせてラップするとか、びゅんびゅんびゅんと口にくわえた民俗楽器をならすとか、いろんなスタイルを見かけた。

1990年代の後半、このあたりで路上ライブをする2人組がちらほらいた。ゆずが大ブレークし、全国にそんな若者が大発生したのだが、那覇のほうでは、ちょっと遠慮がちに点在していたのだ。アコースティク・ギターで歌うのが主流だったと記憶している。パレットくもじあたりで歌う姿も見かけた。

令和のてんぶすの木陰で歌うその女性。聞き覚えのあるような、微妙なメロディーが耳にまとわりつく。でもその情念的な声の質感に、たぶんあれだろうと思いつき、歩を緩めた。そして彼女はサビで声をあげた。「ふぁぃとぉ」

そうか、そうか。日々闘わないわれわれのために彼女は歌ってくれている。時代を超えて、路上に響く歌声に、時が巻き戻されていくような気がした。でもむかしは中島みゆきを歌う路上シンガーはいなかったけれどね。

 
 

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ライター/編集者
1963年生まれ、那覇市出身。沖縄の出版社「ボーダーインク」で編集者として数多くの出版物に携わるほか、作詞なども手掛ける。自称「シマーコラムニスト」として、沖縄にまつわるあれこれを書きつづり、著書に「うちあたいの日々」「<太陽雨>の降る街で」「ンバンパッ!おきなわ白書」「道ゆらり」「うっちん党宣言」「僕の沖縄<復帰後>史」などがある。

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