人懐っこい笑顔の平良司さん(41)。居酒屋のバイトから起業し、現在は沖縄そば店・製麺所「タイラ製麺所」の経営、商品開発、芸能事務所の社長など多方面で活躍する。テレビ番組では「嫁ニー」として人気に。仕事を転々としていた平良さんの人生が大きく動き始めたのは、26歳の時だった。「目の前のことに懸命に取り組めば、新しい景色が広がる」。そう語る平良さんのバイタリティーの源とは。 (編集部/栄野川里奈子)
タイラ製麺所株式会社 代表取締役社長、株式会社サンミュージックオキナワ 代表取締役社長の平良司さん(41)

夢は投げ捨てろ 現実は想像を超える
居酒屋でアルバイトを始めてわずか3カ月で店長が辞め、急きょ、店を任された平良さん。未経験ながら10代のスタッフと必死に切り盛りした。
3年後「自分の店を持ちたい」と退職。国際通りに空き店舗が出て銀行に融資申し込みに行くと「事業計画書は?」と聞かれた。「経営はまったくの素人。『何ですかそれ?』と聞き、手書きのノートを見せて、銀行の人に教わり何度もやり直しました」。一歩も引かない熱意が伝わり、1千万円の融資を獲得。翌年、居酒屋を開店した。

居酒屋の計画をしたためた手書きのノート。最初のページ=右=に記したのは、お店のレイアウト。ここからすべてが始まった
積極的に現場に出ていた開店2年目。社員からの「社長がいると現場の成長が止まる。次の展開を作るのが社長の仕事」という一言に衝撃を受けた。それを機に現場を離れ、海ぶどうを直接仕入れに生産者の元へ通い出した。連日通ううちに生産者から提案され、卸売業をスタート。取引先が広がる中、他社に製造を委託する「OEM」の仕組みを知り、製品化する。
大きな転機となったのは2018年、テレビ番組『月曜から夜ふかし』への出演だった。「嫁ニー」として底抜けに明るい人柄で人気になった。「最初はバッシングが怖かったけれど、想像もしなかった珍道中が始まりました」。店は連日、県内外からの客で満席に。居酒屋の恩納村店を出店し、プロデュースした土産菓子「黒い濃い人」も発売後、完売した。
コロナで借金数千万円に
そんな絶頂期、コロナ禍が始まった。1回目の緊急事態宣言が出たのは、恩納村店を構えて3カ月後、「黒い濃い人」の追加発注後だった。恩納村店は閉店、他店の売り上げも減ったが「雇用は守る」と決め、数千万円を借り入れた。
「人生で一番苦しかったのは、コロナ禍。決断を一つ間違えれば、会社をたたんでいた局面が何度もあった」。資金繰りが厳しくなった時には、県外の野外イベントに自ら出向き出店。5日間ネットカフェに泊まり込んで数百万円を売り上げ、急場をしのいだこともあった。
そんな中でも歩みは止めなかった。「コロナが落ち着いたら、借金を返さないといけない。新しい事業を作らないと」と、補助金も活用し、愛知県に沖縄そば店・製麺所「タイラ製麺所」をオープン。コロナ禍で空きが出た国際通りにも店を構えた。
数千万円の借金も、「眠ったら全部忘れる。不安で眠れないことはない」と屈託なく笑い飛ばす。「どれだけ準備をしても、必ず想定外のことは起きる。解決するまで対応し続けるしかない」
今年、稼ぎ頭だった居酒屋を閉じ、「沖縄そば作り体験工房」を新たに開業した。講師は、代表を務める芸能事務所「サンミュージックオキナワ」のタレントだ。「お客さんに『沖縄そばの文化』を楽しんでもらい、タレントにステージを提供したい」と目を輝かせる。

左から平良さん、沖縄そば作り講師の山城コンセイソンさん
平良さんの軸は、人だ。事業の多角化は雇用を守るため。夜営業する居酒屋では難しかった、年齢を重ね、家族ができても長く働ける仕組みを作った。人との関わりは全力で。テレビ番組出演のきっかけは、アポなしで取材していたテレビスタッフに、無償で自ら進んで知人のお店を次々と紹介して回ったことだった。「損得は考えたことがない。自分も周りにかわいがってもらったから」と自然体だ。
「若い頃の自分に声をかけるなら?」という問いへの答えは、「夢は投げ捨てろ。一つのことに縛られるな」。「目の前の扉を開き続けると、想像を超える景色が広がった」と振り返る。
「借金よりも怖いのは、停滞すること」と、全国展開を目指し、8月には東京へ進出する。快進撃は、止まらない。
プロフィル
たいら・つかさ
1983年、南風原町出身。2012年に居酒屋をオープン。「想いっきり海ぶどう」「黒い濃い人」を企画、商品化。22年タイラ製麺所をオープン。25年サンミュージックオキナワの代表に就任
毎週木曜日発行「週刊ほ〜むぷらざ」このひとに聞く(2)
第2033号(2026年7月30日発行)より転載