【特集】沖縄戦を経て命をつなぐ重み|6.23慰霊の日

「絣(かすり)の着物を仕立て直した水着は、重くてね」。1943年、島袋俊子さん(97)が通っていた女学校に、沖縄で唯一のプールが完成した。45年、沖縄戦で学校は爆撃を受けて廃校となり、街も灰となった。語り部が少なくなっていく今、島袋さんが訴えるのは「命をつなぐ」ことの重みだ。失われた「昔」と「今」の写真とともに、記憶を辿る。 

島袋俊子さん。世界大恐慌が始まった1929年に生まれ、幼少期に日中戦争、女学校時代に沖縄戦を経験。「困ったときは困ったなりに、知恵を働かせてきた」

戦時に言われた「命どぅ宝」

戦前・戦中・戦後の激動の時代を生き抜いた島袋俊子さん(97)。「戦時に父に言われた『命どぅ宝』で命がつながった」と振り返る。 

幼少期を過ごした垣花町(現那覇市垣花)は山と海のある自然豊かな町だった。島袋俊子さんは漁港で取れ立てのミーバイを買い、井戸水でさばいて魚汁を作って食べた。

のちに「ひめゆり学徒隊」で知られる県立第一高等女学校に入学したのは1942年。あこがれのセーラー服は廃止され、ヘチマ衿に変わっていた。「英語を学びたい」と意気揚々だったが、授業は「This is a pen」程度で終わり、やがて英語を話すこと自体が禁止された。

沖縄戦で看護要員として動員された沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒、教師の総称。両校の生徒約1150人のうち学徒隊として240人が動員され、136人が亡くなった。ひめゆりは両校の愛称

2年生になると戦争の色はさらに濃くなり、竹槍訓練や救急法を学んだ。3年生には、1日おきに県内各地へ陣地構築へ動員された。そんな日々の中、忘れられない光景がある。卒業生らの積み立てで完成した、県内唯一の学校のプールだ。「水着なんて持ってなかったから、絣(かすり)の着物を水着に仕立ててもらったの。水を吸うと重くて全然泳げなくてね」と、楽しげに振り返る。

沖縄県立第一高等女学校2年生の島袋さん=写真後列左から2人目(島袋さん提供)

女学校時代のプール。島袋さんは写っていないが、思い出の風景だ(ひめゆり平和祈念資料館提供)

10・10空襲で焼けた那覇

1944年10月10日、10・10空襲。美栄橋の自宅にいた島袋さんは家族と防空壕へ避難した。次々に爆弾が落ち「ドミノ倒しのように」倒れる木造の家屋を、火を放つ焼夷弾が焼き尽くした。この時、島袋さんは学校を休んでいた。数日前、動員先で熱い砂糖湯(サーターユー)が足に落ち、大やけどを負っていたのだ。「動員に行っていたら、どうなっていたか分からない。運命だった」

10・10空襲。那覇市。死傷者は軍民あわせて約1500人。那覇市の90%が灰になった(沖縄県公文書館提供、沖縄タイムス大百科事典参照)

空襲後、夜通し歩いてうるま市(旧具志川村)川崎へ。その後、学校に戻った。その後の空襲で校舎が被害を受け、分散命令で家族の元へ。再度学校へ戻ろうとする島袋さんを父親は止めた。「命どぅ宝。学校は2番」。家族と東村へ避難したが、待っていたのは餓死寸前の生活だった。養蚕業用のクワの葉を海水で煮込んで出すと、幼い妹は「こんなのご飯じゃない」と拒んだ。「アメリカー(米兵)が来るぞ」と聞くと、レイプの恐怖から山中に身を隠して夜を明かした。ハブやイノシシより、米兵が怖かった。その後米軍の捕虜となり、敵と教えられた米兵に食糧を配給され、命をつないだ。

女学校時代、本土出身の校長は「自分たちの島を自分たちで守らないで誰が守るのか」と、疎開する人を非難した。その言葉に従い家族の疎開を止めた島袋さんは「もし家族に犠牲が出ていたら私のせいだった」と悔やむ。校長は学徒隊と行動を共にせず、戦後、本土へ引き揚げた。

戦後、東京で美容師に

戦後は琉球貿易庁へ勤め、同庁の琉球政府との合併に伴い退職。「これからは男女同権の時代。仕事を持って生きよう」と単身東京へ。昼に働き、夜は学校に通い美容師免許を取得した。帰郷後、美容室をオープン。その後結婚し、美容室を経営しながら4人の子育てに励む。49歳の時に夫が胃がんで急逝。女手一つで家庭を支えた。取材中、何度も口にしたのが「臨機応変。なせばなる」という言葉だ。子育て中、泳げなかったコンプレックスを克服するため水泳教室に通い、クロールをマスターした。

琉球貿易庁で英文タイピストだったころの島袋さん=写真前列右から2人目(島袋さん提供)

島袋さんは「亡くなった学友たちがいたことを伝えないと」と記録を残し、ひめゆり平和祈念資料館の設立に尽力。75歳の時にハワイの真珠湾を訪れた。「戦争に敵も味方もない。悪いのは戦争を始めた人たち」

2026年5月、97歳の誕生日を祝って孫から「おめでとう」と電話があった。「戦争を生き抜いたからこそ、子、孫へ命がつながった」と静かに噛みしめる。

本土復帰前、単身東京へ渡った時のパスポート。船で数日かけて東京へ行った

島袋さんは「記憶は一代、記録は末代まで」と、自分史(全5巻)を制作。講座を受けて、製本も自分でした

沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校は那覇市安里、現在の栄町市場=左写真=にあった。現在は市場内にひめゆり同窓会館がある。入口に両校の戦前の写真が展示され、2階のひめゆりピースホール=右=では演劇が行われる

沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の校門(那覇市歴史博物館提供)

写真で見る戦中、戦後 沖縄県公文書館

「身近な地域の戦中・戦後を知りたい」ときに、有効なのが沖縄公文書館のデータベースだ。県内の戦中・戦後の写真を、ウェブで無料で見ることができる。

沖縄の歴史的な記録の多くが失われた沖縄戦。歴史的な記録を残そうと、1995年、当時の大田昌秀知事の時に、沖縄県公文書館は設立された。米国から収集した沖縄戦や戦後の貴重な資料が、数万点収蔵されている。

同館のウェブサイト「写真が語る沖縄」では、戦中・戦後の写真が無料で閲覧ができ、身近な地域を検索すると、写真で当時の歴史を視覚的に学ぶことができる。

さらに同館は、パンフレット「写真が語る沖縄 昔おきなわ風景探索」を発行=下写真。戦中・戦後の貴重な写真を、場所を特定し、カラーで掲載。戦時の焼け野が原となっている那覇市おもろまち付近や、爆弾の後が生々しい1945年の那覇市首里崎山町などの貴重な写真を公開している。

編集・執筆を手掛けた当山昌直さんは「昔の沖縄がどんな環境だったかを知るために、航空写真に着目した。当時の写真は現在とは風景が全く異なり、大まかな情報しかないものが多い。そのため、GIS(地理情報システム)を活用し、国土地理院の現代の地図と昔の写真を重ね合わせて場所を特定している」と、その取り組みについて語った。

パンフレットは同館で無料で配布されていて、ウェブでも見ることができる。

沖縄県公文書館の当山昌直さん

大人になった今、改めて訪れたい「ひめゆり平和祈念資料館」

写真提供/ひめゆり平和祈念資料館

ひめゆり平和祈念資料館=写真=は、ひめゆり学徒隊の沖縄戦の体験を伝えるミュージアム。1989年6月23日、ひめゆり同窓会によって設立。戦前の校舎を模して建てられている。2021年に展示内容がリニューアルされ、証言映像や当時の写真、壕(ごう)の実物大模型などが、分かりやすく展示されている。

久しぶりに訪れた記者は、以前と違う視点で展示を見ていた。「おかあさん」と言い残して亡くなっていった生徒が自分の子どもだったら…、自分が教え子を率いる教師の立場だったら…。同時に、きれいな水が飲めること、屋根のある家で眠れること、日常と平和のありがたさを実感した。大人になった今こそ、訪れたい場所だ。

ひめゆり平和祈念資料館

入館料:大人450円
電話 098(997)2100


取材/栄野川里奈子
毎週木曜日発行「週刊ほ〜むぷらざ」特集 6.23慰霊の日
第2027号(2026年6月18日発行)より転載