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新城和博

2022年8月10日更新

のうれんプラザの日々|新城和博さんのコラム

ごく私的な歳時記Vol.97|首里に引っ越して20年。「ボーダーインク」編集者でライターの新城和博さんが、この20年も振り返りながら、季節の出来事や県産本の話題をつづります。

この連載でも何度か取り上げているのだけど、「のうれんプラザ」である。

戦後、設立された「農業連合組合」の市場である那覇市与儀にあった「農連市場(のうれんいちば)」の建物が老朽化のため取り壊されて、新たに「のうれんプラザ」という複合施設に生まれ変わったのが、2017年11月のこと。アメリカ世から復帰後につづくオキナワの原風景として紹介されていた「農連」のレトロなたたずまいがまったくない施設に対して、否定的な意見を述べる人たちがいたが、ぼくは新しい市場の誕生として、その変化を味わっていこうと思っていた。そもそも農連市場も最初は新品の建物だったのだ。

あれからいろいろあったけれど、新型コロナウイルスのパンデミックが続いているなか、のうれんプラザはどうなっているのかというと、ぼくはだいたい週3~4回のペースで通っている。主な目的は、平日のお昼ご飯である。土日に寄るときは野菜も買う。

この5年の間にいくつかの店は無くなり、また新しくオープンする店があった。特に飲食店の変動は激しかった。市場はいつも動いている。新陳代謝を繰り返しながら、その時代にあった姿に徐々に変わっていくようだ。その動きの中でコロナ禍3年目の夏の特徴はというと、「東・東南アジア化」である。


▲ベトナムのフォー

沖縄そば、八重山そば、沖縄惣菜(そうざい)、沖縄居酒屋(含むステーキ)、鮮魚居酒屋といった地元沖縄の食と、ラーメン、日本そばに、フルーツサンド、ブリトー、カフェといったラインアップに、韓国のファストフード、台湾の豆花などが加わり、さらにベトナム料理の店がこの夏オープンしたのである。この流れは、那覇の公設市場かいわいも含めた変化でもある。もともとアジア料理の店はあったのだが、コロナ禍で、台湾、韓国の飲食店が増えた。アジアからの観光客の姿が無くなったマチグヮーの一角が、東・東南アジア化しているのはとても興味深い。


▲沖縄居酒屋のにつけ定食(テビチ)

のうれんプラザで、今年一番通うようになったのは、沖縄惣菜の食堂なのだが、おばちゃんたち家族(たぶん)が営む、お客さんの平均年齢70歳前後という食堂になぜはまったのかについては、深く長い話になるのでいずれ書くとして、八重山そば、日本そば、台湾のルーローハン、韓国の冷麺、北海道ラーメン、海鮮寿司定食など、いずれの飲食店も、ほどよい具合で混んでいないので、このコロナ禍で重宝している。復帰50年関連の取材を受ける時も、のうれんプラザのお店をさんざん使った。


▲鮮魚店の鮨ランチ

のうれんプラザにやってくるお客のほとんどは地元客である。しかも卸しの業者さんは別にして、普段使いのお客の年齢層はまあまあ高い。外のエントランスの木陰には、何をするということもなく炎天下で座り込んでいるおじぃ、おばぁさんたちの姿もある。まるで公園に集まる猫たちのように、ただそこにいる感じ。夏の暑さも冬の寒さもどこかしら人ごとのように受け流している。

そうした風景をながめつつ、台湾の黒糖蜜をかけた豆花を食べながら、台北の様子を描いたエッセーを読んだりして、那覇から動くことなく、心の中で東・東南アジアを旅行しているのだ。今年の夏はマンゴーまつりのごとく、あちこちの店でマンゴーが売り出されている。ぼくの、のうれんプラザの日々は当分続く。

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ライター/編集者
1963年生まれ、那覇市出身。沖縄の出版社「ボーダーインク」で編集者として数多くの出版物に携わるほか、作詞なども手掛ける。自称「シマーコラムニスト」として、沖縄にまつわるあれこれを書きつづり、著書に「うちあたいの日々」「<太陽雨>の降る街で」「ンバンパッ!おきなわ白書」「道ゆらり」「うっちん党宣言」「僕の沖縄<復帰後>史」などがある。

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