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新城和博

2021年12月7日更新

あじゃのおばさんたち|新城和博のコラム

ごく私的な歳時記Vol.90|首里に引っ越して20年。「ボーダーインク」編集者でライターの新城和博さんが、この20年も振り返りながら、季節の出来事や県産本の話題をつづります。

先日、島のおばさんが亡くなった。九十九歳だというから、寿命を全うしたということになるだろう。しばらく会っていなかったけれども、小さいときからかわいがってもらった。いつも陽気なおばさんで、笑顔しか思い出されない。きれいな白髪で、ふくよかな顔立ちをしてカジマヤーの衣装をつけている遺影写真のおばさんよりも、復帰前からずっと働いて、子どもが大きくなったら島に戻って過ごしていたころの、元気な姿だけがぼくの記憶に残った。それだけ最近は会ってなかったということだけど。

うちの母親の島は、戦後多くの村人が沖縄本島に出て仕事をしていた。復帰前、おばさんは、安謝に住んで軍雇用の仕事をしていたので、ぼくは「あじゃのおばさん」と呼んでいた。うちの母親は、島から出て、那覇の神里原の百貨店・山形屋に勤めていた。近くの開南バス停あたりに住んでいて、結婚後もそのまま開南に住み続け、ぼくたちきょうだいもそこで育った。ぼくらはヤーンナー(屋号)とは別に「かいなんの新城です」と言って、知らない親せきにあいさつしていた。

当時バスに乗って時々母親とともに、安謝のアパートに遊びに行った。降りるバス停に近づくと、車内側面に設置されている洗濯ひもみたいなものを引っ張ってブザーを鳴らしていた。1号線の道路の下がトンネルになっていて、トンネル抜けるとそこは安謝の商店街だった……すべてはいま後付けされた記憶の映像かもしれない。おばさんのところで、軍払い下げ品をいろいろもらったのだけど、その中でなぜかアーミー色の鉛筆削りが印象に残っている。ほんとにそんなものがあったのかどうか、いま確かめてみたい。




ものごころ付いたときから、ぼくらのまわりには島のおばさん、おばぁさんたちがたくさんいた。那覇の家にもよくたずねてきていたし、夏休みに島に里帰りのように遊びに行けば、よく来たねと、近所のおばぁさんたちに囲まれた。みんな朗らかだった。でもその笑顔はどことなくクールでもあった。キセルで煙草をスパスパ吸ってたなぁ。おばぁたちは、ずっとおばぁのままで、ずっとぼくらのそばにいるもんだと思っていた。いま気がつくとおばぁたちのほとんどはどこにもいない。

おばぁさんたちは、何人か寄り集まると、ときおりイクサのときの出来事も話していた。どんなふうに「自決場」に行ったのか、そのあとの山のなかでの暮らしぶりも聞いていた。そんなふうにして、ごく普通にぼくたちは「集団自決」の生き残りの子どもであることを自覚したのだ。

夏休み、島に行くと、まず線香を立ててトートーメーの前で手を合わせる。子どもの頃は、線香が燃え尽きるまで仏壇の前に座らされた。おばぁさんがすりすりと手を合わせながら「サリ、トートガナーシー…………」と、なにごとか厳かにつぶやいてた。そのとき、とても長く感じられた時間は、今、とても限りあるものだったことに気がつく。

コロナ禍2年目の年の瀬に、おばぁさんたちの朗らかでクールな笑顔が思い浮かんでは消えていく。

新城和博

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ライター/編集者
1963年生まれ、那覇市出身。沖縄の出版社「ボーダーインク」で編集者として数多くの出版物に携わるほか、作詞なども手掛ける。自称「シマーコラムニスト」として、沖縄にまつわるあれこれを書きつづり、著書に「うちあたいの日々」「<太陽雨>の降る街で」「ンバンパッ!おきなわ白書」「道ゆらり」「うっちん党宣言」「僕の沖縄<復帰後>史」などがある。

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