コロナ禍でのお別れ、救急と葬儀とモロモロと…|金城真知子のコラム|fun okinawa~ほーむぷらざ~

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COLUMN

金城真知子

2021年6月22日更新

コロナ禍でのお別れ、救急と葬儀とモロモロと…|金城真知子のコラム

3人の子育てワーキングママ金城真知子がつづる「ホッとする沖縄時間vol.70」をつづります。

コロナ禍でのお別れ、救急と葬儀とモロモロと…

〜〜 父親が他界して1カ月 〜〜

季節外れの台風が沖縄に接近した4月の暮れ。父が救急で病院に運ばれた。
それから5日も待たずに住む世界が変わってしまったので、わが家だけ台風が上陸したんじゃないかと思うほど、怒濤(どとう)の日々を過ごしていた。

今日のコラムは、ちょっと暗い。いやいや、だいぶ暗い。。。
テーマにあげている「ホッとする沖縄時間」とは違ってしまうから、何度も何度も他の話題を探したのだが、いくら机に向かっても全然書けない。それならば、あえて今しか書けない家族の感情を、なんとか言葉とつなぎあわせて、手繰り寄せながら残してみたいと思った。今回もつらつらと超個人的な家族のことを、、、もしもよければお付き合いください。


〜〜 最期の声 〜〜

父の声を最期に聞いたのはタブレット越しだった。
既にまん延防止措置が出されていることもあって病院内の面会はNG。
「入り口の守衛室近くで待っていてくださいね」と看護師さんが下りてくる。
ICUにいる父親とSkypeでつないでくれたのだ。
画面越しに見える父の顔、タブレットから伝わる父の声。
コロナ禍でこんなにも医療現場が大変な中で、言葉を選びながら冷静に状況を説明してくださる姿。ほんの数分でも「どうにか家族と会わせてあげたい」という思いがにじみ出ていた。
結果的に最期となったその瞬間も、看護師さんたちの心遣いに私たちは心底救われた。
命の現場こそ、まさに「働く人」が支えてくれている。


〜〜 終末の過ごし方を選ぶ 〜〜

数年前にガンの転移が見つかってからは30年以上続けてきた事業をたたみ、自宅で過ごすことを選んだ父。通院しながら母と2人でゆったり暮らしていた。
私も毎週のように子どもたち(孫)を連れて両親に会いに行っていた。
本音は、いつも料理上手な母がご飯をごちそうしてくれるので、夕飯も作らずに済んでラッキーという感じ! 結婚式の司会の夜も特に何もない日でも、子どもたちを何度となく預かってもらっていた。
 実家に行くと、テーブルに並ぶ料理はいつでも両親が自家栽培した野菜たちでいっぱいで、食卓にいながら沖縄の旬を感じることができていた。
学生時代からさほど変わらない いつもの風景。
収穫時は同じ野菜が大量に採れるから「またこれ?」ってグチをこぼしたくなる時もあったけど、農薬を使わず安心して季節を頂くことのできる、今思えば、とてもとても豊かな時間。。。

いつも父が自慢げな表情で「お母さんが作る料理はおいしいでしょ〜!! どんどん食べなさいよ!!」って、お皿を次々に空っぽにして全部たいらげるもんだから、命のタイムリミットを宣告されている時でも、もう少し、あとしばらくはこの豊かな時間が続いていくものだとばかり思っていた。
今でもまぶたに浮かぶのは、ご飯をおいしそうに食べてる父の笑顔。。。
何度思い出してみても、父はやっぱり食べている(笑)


〜〜 コロナ禍で告別式はどうする?? 〜〜

亡くなって、最初の「決める」はお葬式のことだった。
小さく家族葬にするか、会場を借りて告別式を行うのか、コロナ禍であることを前提に、限られたわずかな時間で「どうするか?」を決めていく。
母の最初の希望は「家族葬」。最小限にして負担をかけたくないとのことだったが、みんなで話し合った結果「告別式を行う」ことに決めた。
 最大の理由は「事業をしていたこと」だった。会社をたたんで2年がたっているとはいえ、南部の小中学校や教育委員会、社協などたくさんの先生や職員の方々とのつながりの中で、事業を30年も継続・発展させてもらっていた。
「会社もさ〜、お父さんにとってはわが子みたいなものじゃない? 最期くらい連絡してほしかったって思う先生方も多いはずよ」と家族会議でまとまったのだ。
だからこそ、新聞の告別式欄には「元」を付けて社名も掲載した。最初は夫婦2人で立ち上げた会社。今ではもう設立することができない有限会社の(有)という頭文字が、積み重ねてきた時を感じて なんだか誇らしく感じた。
そして、当日。
全日まで連日晴天だったことが信じられないほど、土砂降りの中で執り行われた告別式。それにも関わらず何百人という方々に参列していただいた。
父の偉大さと、想像していた以上につながりの広さや深みを実感した時間だった。たくさんたくさん迷ったけど、やっぱり告別式ができてよかった。
 


〜〜  そして、食べる 〜〜

感染拡大を気にしながらも、お通夜や法事の間は、親族が食べる料理をやっぱり手作りしている母。みんなで食事することがはばかられるご時世だから、簡単に手に取って食べられるジューシーを作る。隣に住む長男おばさんから作り方を習ってきて、業務用の炊飯器で。これ12合炊きらしい。
おにぎりにするのは私たち姉妹の役目。
昔から「下ごしらえ」や「お手伝い」は私たちの役割だった。
淡々と同じ動作をくりかえす。手を動かしながら話していると、とにかくいろんなことがひも付いて浮かんでくる。
やっぱり「食べること」を通して飛び交う会話こそ、わが家の原点かもしれない。
いつも以上に距離をとり、マスクを上げ下げしながら「食べる」「語る」。
来てくれた、おじちゃんおばちゃんと話しながら、笑っては泣いて、思い出しては、また目を潤ませて。。。感情を大きく揺らしながら、父との家族写真を何度も見つめ直す。
それから49日までの約1カ月半。実家は、かつお節のダシの香りと、おばちゃんたちのちょっぴりかすれた笑い声に包まれた日々だった。
 


〜〜 自分の葛藤・私は薄情者なのか 〜〜 

父との別れを通して気づいたこと、感じたことはたくさんあったのだが、大きなひとつが時間を共にする「難しさ」であった。
救急搬送の後から、お別れ、告別式、毎週の法要と、何度となく実家に足を運ぶわけだけど、数週間もすると、私は、途中からふてくされてしまっていた。。。
初七日の日に繰り上げ法要(四十九日)を済ませているにもかかわらず、毎週末、何度となく父に会いに来てくれる親族や地域の方々。

さすがに、口に出して言ったわけではなかったが、
「何でこんなにやらないといけないことがあるの?」とか
「仕事以外で人前に行くなって、どういうこと?」とか
「毎週お墓にお父さんをお迎えに行くって大変!」とか
「両親の兄弟姉妹まで、毎週わざわざ来てもらわなくていいんじゃない」とか、、、
ありがたいけど、大変である。あれ? 大変だったのかな?
前準備は母がほとんどやってくれているので、私は「行くだけ」だったし、盛り付けや配膳、お茶出し、お茶わん洗い、、、少しのお手伝いしかしていない。
にもかかわらず、毎週、実家に通って丸1日を費やすことに、とてもキツさを感じていたのだ。

思うように自分の仕事が進まない焦り。丸1日、暇そうな子どもたちの表情。「お父さんに会いに行く」いう名目があるにせよ、実家に行って手を合わせて、お客さんに配膳して、時間になったらご飯を食べて、とにかく、雑談・雑談の日々。
こんなことに長時間使うって、なんだかもったいない。

お葬式の時に感じた「人とのご縁」や確かに感じた「ありがたみ」は、どこに飛んでいってしまったのだろうか。
長い人生の中で考えると、ほんの短い49日間なハズなのに、すごく長く感じてしまう法事の時間。。。私を育ててくれた父と母への感謝の気持ちが足りないからなのか、、、なんだか自分が薄情者に思えてきて、情けなくなってくる。
でも、なんだか「実家に長居したくない」その思いで胸がいっぱいだった。

このモヤモヤした気持ちが何なのか分からないまま、とにかく苦しかった。
その理由が少し分かってきたのは、命日から1カ月がたったころ。

あまりにも長くなってきたので、
私のちいさな心の変化は、来月のコラムへと続く。。。






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フリーパーソナリティー
沖縄県南城市出身。琉球大学卒業。
ラジオパーソナリティー・ウェディング司会者・スマイルトレーナー®
FM沖縄『ちゅら玉・浪漫紀行』ではライター兼ナレーターを担当。
沖縄の自然や習慣・格言などを題材にウチナーグチを交えて紹介。
本コラムでは、沖縄で暮らす3児のワーキングママとして、家族の日常を綴っていく。

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